第32話 ボレアン遠征(その6)
楽しく賑やかな夕食を終えた後、お屋敷は打って変わって静かな時間を迎えていた。
朝日が昇る前の夜と朝の間にユエイリアンを出発してから、ほとんど休む間もなく活動し続けてきた私たちはようやくみんなそろって一休み。
サフィが淹れてくれた緑茶片手にソファでくつろぎタイム。
そうは言ってもグラナートさんは自作の料理帳に今日知った事や作ったもののレシピを書き留めているし、ディアも同様に調査記録の続きを綴っている。
のんびりお茶を楽しめているのは私とサフィ、ゲート。
馬車を走らせてくれた聖騎士さんは馬の世話もあるので、宿泊する離れに下がっていった。
今私たちがいる母屋の警備を担当してくれているのは、フリソスさんと国から派遣された護衛団の人たち。
彼等は数時間ごとに交代で警備にあたっている。
旅先でもこうして安心安全な時間と場所を確保してもらえる事に感謝して、明日も彼らに美味しい食事を振る舞おうと思う。
そしてもう一つ、私が思っているのはこの町、ボレアンのこと。
見事な月下美人のお着物に視線を向けながら思いを馳せる。
「サフィ、明日あの着物に着替えたら、祈りの間へ行ってみようかな」
「確かこのお屋敷に併設されていましたね」
「うん。今の私がこの町に出来ること、って言ったらやっぱりお祈りだと思うの。どう思う?」
「なるほど…そうですね…」
神妙な面持ちでサフィは思案する。
「本音を言えば今朝は夜明け前に出発しましたから、ユウにはゆっくり休んでいただきたいと思っています。日中も一生懸命でしたしね。でも健気なユウがそう言い出すんじゃないかと言う事も予想していました。ですから、短い時間で行うのはいかがでしょう」
「じゃあこの後サフィの着付けのおさらいに付き合って、その後お風呂に入ったらお祈りするっていう予定でいきます」
「分かりました、ありがとうございます。もう少し休んだら着付けの準備をいたしますね」
サフィはそう言って空っぽになった私の湯飲みにお茶を足してくれた。
そのタイミングでディアが「うーん」と小さく唸りながら顔を上げる。
「どうしたの?」
「今日一日でこの町がどのくらい異文化か、っていうのは分かったんだけど…実際のところどうなんだろうね」
「?」
「月光神様への信仰心が篤いのはよく分かったし、町の人はみんな働き者で温厚。衣食住も自分たちで賄えているみたいだし、これといって不足していることはないように思える。だからこそ、っていうのかなぁ。積極的に他の町と交流を持つ必要性がなかった結果今がある…?」
まるで自問自答しているようにディアは言う。
そこへ、トンと湯呑を置いたゲートが
「国として町周辺を整地しても、こちらが考えているような交流は生まれないかもしれない、ということか?」
と問いかけた。
「そうなんだよ。これは町長にしっかり聞き取りしないといけないと思ってる。国がお節介を焼いたことで彼らが望まない「強制的な交流」が生まれてしまったら、この町の生活が壊れてしまう可能性もあるからね」
そう語るディアの表情は凛としていて普段のあどけなさや幼さは微塵もない。
良かれと思って施したことが不幸を招いてしまう、そんな可能性があることもディアは思い至っているんだ。
善意の行動が裏目に出ることは少なくない。
それは人として生活していたらよくあることだけど、事前にそのことに気付ける人は多くないと思う。
私はディアの話をもっと聞いてみたくて、彼が言葉を続けるのを静かに待つ。
「文化はアイデンティティの根っこ。そこに他の文化が現れたら、違いが大きいほど摩擦も大きくなる。僕たちは王都から見たユエイリアンしか知らないから、軽率な事はできない」
いつもの饒舌な様子とは違って、ディアの言葉はゆっくり、ぽつりぽつりと紡がれる。
「だがユウが着物を着ることで人々の注目はきっとこの町に向く。ましてあの見事さだ、貴族たちはこぞって手に入れようとするだろうな」
「それにグラナートがお店でワショクを提供し始めたら、一般市民も興味を持つだろうね」
傍らで夢中になって料理帳と向き合っているグラナートさんにディアの視線が移る。
「俺?」
自分の名前が出ると思っていなかったらしい。
グラナートさんは不思議そうにきょとんとした。
「そうだよ。特権階級にだけワショクを提供して市民には味わわせない、なんてグラナートは絶対考えないでしょ」
「当然だ。食を楽しむのに市民も貴族も関係ないからな。だが俺だってバカじゃない。殿下たちを困らせてまでワショクを広めるつもりはないよ。しばらくは神子だけに食べてもらう、っていうのはアリだと思うんだ」
ははは、と彼は軽く笑い飛ばす。
「私だけ?」
驚いたのは私の方。
「神子は俺のワショクの師匠だからな、そのくらいの特権があってもいいだろう」
「師匠!?そんな大げさですよ」
「大げさなもんか。俺に新しい世界を教えた張本人なんだ。先達を師匠と呼ぶのは自然な事だろ」
これは本気だ、本気で言っている。
むしろ「師匠と呼ばずして何と呼ぶ?」と続けられてしまいそうなくらいだ。
私は否定するのを止めてひとまず受け止めることにする。
天才料理人相手に大変恐縮です、と肩を竦ませたけれど直後、彼は鋭さを増した真剣な眼差しを浮かべた。
「それに俺は料理人として、この町の食文化が他に浸食されたり、融合して元の形が分からなくなってしまったりすることを危惧している。ある程度情報を出すタイミングや出し方、その内容や分量の調整は必須だ。殿下の腕の見せ所だな」
「分かってる。もちろん父上たちとも相談だけど、しっかり考えた上で実行に移していくよ」
ディアは既に国を統べる人物になりつつあるんだな…。
この間、彼の神印が五分咲きになった時から少しディアは変化していた。
元から国を背負っている覚悟や気概は見えていたけど、あの頃はまだ不安定さがあった。
彼の言葉を借りれば「悲壮感」が漂っていたからだろう。
でも今は信頼に足る力強さがある。
「応援してるよ、ディア」
素直に口をついて出た言葉に、彼はいつもの人懐っこい笑みを浮かべて
「ありがと」
と応えた。
そんな時にふと
「考えてみたんだが、着物は神子の神聖な衣装だ、ということにはできないのか?」
ゲートが問う。
「町の人たちが着ているものと、フリソデだったか?あの着物やセイランさんから贈られたものは形が違うだろう?もしかすると女性用だからかもしれないが、それに気付く者はいないんじゃないかと思う。ボレアンの女性たちは常に屋内にいるようだしな」
そう言えばここへ来てから女性を見かけていない。
でも和菓子は女性のためにつくられたって言ってたから、多分家の中にいるってことだよね。
ラウルスだって女性はみんな室内にいたから、そういう部分はきっとこの世界共通。
だから振袖が特別なものだ、っていうことに変わりはない。
「それアリかも。プレゼントされた振袖は「本振袖」っていう第一礼装だから、婚礼や特別な日に着るものなの。ここでも同じように扱われているとしたら、普段着とは違うから特別な衣装っていう意味ではあってると思うよ」
「では明日、町長に聞いてみましょう。問題なければ神殿から神子専用の衣装だと発表します。そうすれば振袖が流通することはありませんから」
サフィも同意してくれて、着物のことは何とかなりそうだ。
相変わらずゲートは静かに成り行きを見守って、口を開くときはとても良いことを言う。
セイランさんの家業であることを考えたら着物が流通した方がいいのかな、とも思うけど、それはディアやサフィたちに任せよう。
私は私に出来ることをやるだけ。
そしてすっかり落ち着いた私はすっと立ち上がる。
「さあ、着付けの練習しよう!サフィ」
「よろしくおねがいします。ユウ」
私たちは着付けをする畳の間へ移動した。
着物を着つけてもらうのは気が引き締まるし、身体も引き締まる、物理的に。
でもドレスと違って「お任せ」よりは、私もほんのちょっとだけ強力出来ることがあって楽しい。
サフィはセイランさんに教えてもらいながら書き留めたメモを元に、順調に着付けを進めていく。
流れるように着つけは済んでいき、いよいよ仕上げの帯に取り掛かる。
「ユウ、こちらを押さえていてくださいね」
「はーい」
肩から前に掛けられた部分の帯を抑える。
シュルシュルと言う音がして、帯が形を変えていく。
せっかく可愛い帯にしてくれているのに、私からは見えないのが少し残念だけど、今から鏡を見るのが楽しみだなぁ。
私は呑気にそんなことを想っていたのだけれど。
サフィは手を止めずに
「着物というのは何というか、罪深い御召し物ですね」
と呟いた。
「え?」
「普段ドレスを着つけているのに何を言うのか、とお思いかもしれませんが、着物は全体的に肌を覆っているのにこの襟足だけは隠しようがないというのは何とも…」
もごもごもご。
続きは言葉にならないらしい。
突如発せられたサフィのセリフは多分…ヤキモチ?独占欲?それとも保護者的な意見?
ここにディアがいたらきっと上手に形容してくれるんだろうけど、彼はゲートと一緒にお風呂タイムだしフリソスさんたちは私の着付けを見るわけにはいかないので、客間にあったふすまで空間を仕切っているから実質私とサフィは二人だけ。
だから零れ落ちたサフィの本心。
「振袖はあでやかでユウによくお似合いです。正面から見ると清楚で凛として美しい…でもふと背後へ回れば首筋が丸見えだなんて」
「まずい、かな?」
「いいえ、そんなことはありませんよ、決して。ドレスを着る時はデコルテが見えますし、形によっては肩も見えます。だから肌が見えること自体は、その、ええと」
サフィは気まずそうに言いよどむ。
そのうちゴホッと咳払いをして、帯の羽根を整えているのが感じられた。
できましたよ、という言葉と共にくるりと身体を回転させられてサフィと向かい合う。
「我ながら上出来だと思います。とても華やかで愛らしい、貴女にぴったりです」
「ありがとう。…でも、なんでそんな顔してるの?」
頬を染めて眉間にしわを寄せて、でも口角が上がりそうでむずむずしているのを一生懸命こらえている…サフィの顔、筋肉とか神経とかが壊れちゃいそうだよ。
全然視線を合わせてくれないサフィを私はじっと見上げる。
………。
「っ」
ついに我慢できなくなったサフィは両手で顔を覆って隠してしまった。
「もう、サフィ?どうしたの?」
「なんでもありません、大丈夫です、お構いなく」
いつもなら口にしそうにない拒絶の言葉を吐いて、顔を覆ったまま首を振る。
美人なサフィがするから違和感ないけど、そんな仕草は初心な乙女のようです。
何だか可愛く見えてきちゃう。
むくむく心の中に湧き上がってくる私の悪戯心。
目の前で耳まで赤くなったサフィに、どうにかしてこっちを見させたい。
「サフィ?せっかく着付けてくれたんだから、ちゃんと確認して?」
「っ!?」
びくっ
文字通り肩を大きく振るわせてサフィが動きをぴたりと留める。
私はそっと彼の両手ごと頬を自分の両手で包み込んで、額と額をあわせてみた。
皮膚が薄いそこはその分結構敏感なんだ。
背伸びをして何とか届いたサフィの額。
密着した肌がくすぐったい。
少しの間そうして、身体が攣りそうになったところでサフィを解放。
でもサフィは全く微動だにしない。
完全に機能を停止して固まっている。
…やりすぎ…た?
心配になって再び彼の顔を覗き込む、と。
「あなたって人は…!!」
ぐっ
サフィは初めて私を男性らしく、感情の勢いのまま抱き寄せた。
「昼間、セイランさんに教えていただいている時から薄々感じてはいたんです。着物の着付けは随分密着するし、線を整えるために、その、あちこちに手が触れます。でも昼間は相手が男性でしたし、覚えるのに必死でしたからそんな煩悩は吹き飛ばせました。でも今は…今は…」
「ドキドキ、してくれた…?」
「しないはずがないでしょう…?最初は肌がほとんど見えない着物はなんと素晴らしいものかと思いました。でも甘かった。ほとんど隠されているのに、よりにもよって色香が漂う項が見えるなんて!あぁ、もう…私は神官失格です。あなたの着物姿を他の誰にも見せたくないと思ってしまうなんて」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が震える。
くすぐったい感覚と同時に、とくりと音を立てた。
鼓動は耳の奥で次第に大きくなる。
「サフィ…」
抱きしめ返して感じるサフィの背中。
その大きさと逞しさと、じんわりとした熱。
何だろう。
ぐっと込み上げて喉をきゅっと締め上げるのは、ほんの少しの照れくささと幸福感。
嬉しい。
私、嬉しいんだ。
さっきのはヤキモチだったんだ、って分かったから。
「好き、だよ。サフィ」
小さく呟く。
その囁きに似た声を、彼は信じられないような顔で受け止めていた。
優しく体を話して、でも両手は私の腕に添えられたまま。
サファイアの瞳が潤んで揺れる。
「ユウ、今…」
彼が声を絞り出したその時。
ふわりと彼の左手が光に包まれた。
淡い輝きの中で描かれたのは神印。
そして私の額も呼応する。
「神印が…これは…!?」
浮かび上がった神印はゲートやディアの物とは違う。
もうすぐ完全に花開く、直前の様子。
言葉もなく私たちは彼の手の甲に浮かんだ模様を見つめる。
サフィはそれを見届けると、今度は静かに、でもぎゅっと私を抱き寄せた。
「お慕いしております」
彼はそれだけを胸の奥から吐き出すように告げてくれた。
続く
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