第8話 魔王

 ……いつからだろう。


『勇者の死を、望むようになったのは』


 古城。至る所の天井や壁は崩れ、風や月の光が城内に入り込む。この城が人間の物だったのか。それとも魔物の物だったのか。それを知る者はいない。


 そんな誰からも忘れられた古城にいるのは魔物の集団。


「魔王様。報告いたします」


 古城の中で唯一威厳が保たれている玉座に座る魔王に、参謀が報告する。


「勇者が人間の王国を落とし、今もその周辺の国を滅ぼしています」


 参謀の顔は上気していた。


 ここ数百年。魔物は苦汁を舐めさせられていた。それがようやく終わりを告げようとしている。いや、むしろ始まりだ。ここからは人間に苦汁を舐めさせる。


 それを想像しただけで参謀。並びに、この場にいる多くの魔物たちは心を震わせていた。


「そう」


 しかし、魔王は違った。


 どこか遠くを見つめる魔王の表情からは、何も感じられない。


 魔物たちは淡々としている魔王を見て思う。


 魔王は現状奇跡を想像されていたのだと。


「今でも興奮が収まりません!」


 参謀の口は止まらない。


 語る。魔王の偉業を。



「勇者を魅了魔法で傀儡にするなんて!」



 魔物たちの瞳に映る魔王の姿は、エプロンドレスを着た麗しき女性。頭部から伸びる二本の角。衣服から飛び出る尾と二つの羽。


 エプロンドレスを着た女性が玉座に座っている光景は滑稽だ。しかし、この女性が行った偉業が、魔王の威厳を放っていた。


「魔王様。今こそ人間を滅ぼす好機。我々にご命令を」


 魔物たちが目を血走らせ、魔王の命を待つ。相貌が語っていた。


 早く人間を殺したいと。


 その感情は空気に伝染し、魔王へと届けられる。


「……」


 魔王は初めて魔物たちに視線を向けた。一体ずつに視線を合わせていく。


 参謀を除く全ての魔物と視線を合わせると、古城は淡いピンク色の光に包まれた。


 光源は魔物の瞳。


「……ま、魔王様? なぜ、同胞に魅了魔法を?」


 参謀は魔王の行動に戸惑いを見せる。


「この場にいる同胞は魔王様へ忠誠を誓っております。魅了魔法を使わなくとも──」


「一つ。質問をしていいかしら?」


「っ!」


 魔王は柔らかい笑みを浮かべる。参謀は体を震わせた。敬愛する魔王に笑みを向けられ、歓喜したわけではない。


 笑っていない瞳に恐怖した。


「……な、なんでしょうか?」


「もし私が、人間と仲良くしましょう。と命令すれば、あなたたちはどうする?」


「……はい?」


 参謀は目を点とさせ、首を傾げる。


「聞こえなかったのかしら?」

「い、いえ! 魔王様のお言葉を聞き逃すなどありえません!」

「そう。なら答えて」

「仲良くなど致しません」


 参謀は確固たる信念を持って口にする。


「理由は?」

「魔物が人間と友好を結ぶなど言語道断。それは魔王様も同じ。なので、この質問は人間に同情する裏切り者を探すのが目的だと思われます」

「それがあなたの答え?」

「はい。そして、同胞の答えでもあります」

「……」


 魔王は何も言わず、参謀の瞳だけを見つめる。参謀は思った。


 これは我。いや、同胞の意思を確かめられているのだと。


 だからこそ、参謀は瞳を逸らさなかった。


 魔王が一縷の不安を持つことなく、同胞に命を下せるように。


「そう」


 魔王は笑みを消し、立ち上がる。その毅然たる姿は魔王の中で、ある意思が固まったことを感じさせた。


 参謀は魔王の姿を目に焼き付ける。


 新たなる世界が始まる瞬間を忘れぬように。


 参謀は魔王の声に耳を澄ませる。


 語り継がれる魔王の言葉を聞き逃さないように。


 そんな嬉々とした参謀の前で、魔王は傀儡に命を下した。


 ……いつからだろう。


『勇者に、同情するようになったのは』



「自害しなさい」



 人間を殺すはずだった拳が。脚が。爪が。牙が。角が。翼が。毛が。蔦が。体液が。魔法が。


 己の命を奪う。


 傀儡は一体残らず、己の武器で命を絶った。


「……な、何を、なされて、いるの、ですか……?」


 混乱する参謀の心には、まだ感情が届いていない。目の前の凄惨な光景が、問いを吐露させた。


「見てわかるでしょ」


 魔王は同胞を殺した言う。


「なぜ、このような、ことを……?」

「見てわからない?」


 魔王は同胞を殺した意味を考えろと言う。


「私の頭では、魔王様の高尚なお考えに、辿り着けません」

「だからよ」


 魔王は同胞を殺した真意を言う。


 参謀は察した。魔王の真意には決して辿り着けないと。でも、辿り着ける所はあった。


 魔王の次の行動。


 参謀は咄嗟に後退する。魔王の手が参謀に伸びていた。


 避けらたはずの魔王は笑っていた。哄笑ではなく、微笑。


「っ!」


 恐怖。ようやく、参謀の心に感情が届いた。


「な、なぜ……」


 困惑。


「なぜなんですか!」


 憤怒。


「なぜ、我らを、裏切るのですか?」


 悲痛。


 感情を向けられた魔王は答える。微笑を保ちながら。


「その方が、幸福だから」

「っ!」


 参謀の寒気が収まらない。震えながらも、瞳に敵意が宿る。しかし。


「っ……」


 参謀の瞳から敵の姿が消えた。と同時に、体が軽くなった。主に右肩が。


 右肩から先の感覚がない。熱い。痛い!


「──!」


 参謀は声にならない声を出す。激痛から逃れたいのに、意識は保たれる。


 脳に刻まれる。肩を千切られた激痛を。滝のように流れ出す鮮血を。落ちた右腕が己の血で赤く染まる光景を。そして。


 魔王に対する恐怖を。


 参謀はすぐさま恐怖の源を探す。痛みも恐怖も感じたくないのに。抵抗しても無駄だとわかっているのに。


 全ての感覚を失いたくないと、心が体を動かす。


 見つけた。魔王はすでに、遠くにいた。


「たす……かった……?」


 参謀は臀部を地につける。血の温かさを強く感じた。生の糸で縫い付けられたかのように、その場から動けなくなった。


「……」


 魔王は参謀の様子を背中で感じながら、前方にある惨状を見つめる。


『人間を殺せ!』


『勇者を殺せ!』


 魔王の心の中で、叫び声が上がっていた。


 それは魔物の意思であり、歴代魔王の想い。


 歴代魔王の想いは、新たな魔王に引き継がれる。


 ただ、想いの中に、歴代魔王とは違う想いも含まれていた。


『……いつになったら、私は死ねる』


 勇者の想いだ。それに寄り添うように。


『魔物を殺した勇者が苦しんでいる?』


 歴代魔王の小さな疑問も存在していた。


 歴代魔王がなぜ、敵である勇者に心を動かされているのか。


 魔王は、魔王の力を引き継いだ時、疑問に思った。


 それを確かめるために、魔王は勇者と会うことにした。


 茂みから勇者を見た瞬間、己が抱いた疑問など忘れ、歴代魔王の想いが一気に膨れ上がり、殺意に満ち満ちた。殺意に動かされ、茂みを飛び出す。


 傀儡にして、無惨に殺すつもりだった。


 しかし、勇者の力を前にして、己の無力さを痛感させられた。


 絶望が殺意を押さえ込む。狭窄していた意識が広がる。魔王の疑問が再び浮かび上がった。


 魔王は勇者に問う。


『なぜ、殺さないの?』


 勇者は魔王に答えた。


『お前がまだ弱いからだ』


 短い会話。でも、歴代魔王の想いが引き継がれた魔王にとっては、数百年間会話をしているようだった。だから、魔王は勇者を理解した。


『勇者は魔物に対して嫌悪も殺意も持ち合わせていない。ただ、死ぬために、魔物を殺し、魔王を殺し、己を傷つけている』


 魔王は率直に思った。


 可哀そうな人──


『ふざけるな!』


 脳内に響く。歴代魔王。そして、無惨に殺された数千、数万、数百万の魔物たちの瞋恚が。


 それらは、勇者への同情を飲み込もうとするが、消し去ることはできない。むしろ、二つの想いが渾然する。


 魔王は新たな殺意を心に宿した。


『あなたを助けころしたい』


 そう決意したのに……魔王の力は弱すぎた。魔王の想いは潰える──ことはなかった。


 己が勇者を殺せないなら、次期魔王。この殺意を引き継がせる。


 数年かかってもいい。数百年かかってもいい。いつか必ず、魔王が勇者を殺すことを願い。


 勇者に殺される……そのはずだった。


 勇者は魔王ではなく、人間を殺している。


 魔王の魅了魔法の効果ではない。勇者の意思だ。


 こんな役立たずの魔王のために、勇者は同胞を殺し、さらに傷つこうとしている。


「……」


 だから、魔王は歩く。


 惨殺された魔物の死体が転がる道を。


 魔王は苦しんでいた。


 笑顔を浮かべることができる同胞を殺すことで。


 魔王は泣いていた。


 誰かのために泣くことができる同胞を殺すことで。


 魔王の心は死んだ。


 同じ心を持つ同胞を殺すことで。


 魔王は死を望んだ。


 同胞を殺すことで。


 だが、魔王に死が恵まれることはない。


『魔王は勇者に殺され、勇者を殺す宿命にある』


 この摂理によって。


 魔王は瞳を閉じる。


 あらゆる感情が脳内に響いていたが、徐々に消え去って行く。


 そして、瞼の裏に浮かぶ。


 魔王であることを忘れ、少女として生活した二カ月の日々が。


 ……いつからだろう。


『女の笑顔が見たいと、願ったのは』


 少女の瞳は、未来を見ていた。

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