第5話 出会いと馴れ初めと深入りと別れと出会い

 私が下界に到達したときには、すでに事は起こったあとだった。


 円形の都市へと繋がる鉄橋が、爆煙を上げて崩壊している。鉄橋は中央から半分に折れていた。その残骸が谷の壁面に擦れながらゆっくりと深度を増していく。人の姿は見えなかったが、もしかすると、何人か一緒に落ちてしまったかもしれない。


 顔を上げて、正面へ。


 橋の向こうには住宅地が広がっている。


 高いビルも見える。


 けれど、人の気配は感じられない。


 前方でまた大きな音がした。私は反射的に目を強く閉じる。少し遅れて耳を塞いだが、音はそれよりも先に収束した。再び目を開けると、建ち並ぶビルの間から黒い巨大な煙が昇っているのが見える。また何かが崩壊したようだ。


 そう、崩壊。


 もう、戻れない。


 もともと、無理があったのだ。


 都市の中央に建つビルが、徐々に背を低くしていく。ここからでもその様が分かるくらいだから、実際にはそれなりのスピードだろう。地盤に穴が空いて、鉄橋と同じように谷底へ流れ込んでいるのだ。いや、その先は谷ですらないかもしれない。自分の足もとに目を向けると、そこには闇が広がっていることに気づく。いつからそんな状態だったのだろう? 谷に見えていたのは、偽装か何かだったのか?


 私は、空高くへ舞い上がる術を身につけた。


 上空に飛び上がり、都市の全貌を見る。


 都市は、もう、都市、と形容できる状態を成していなかった。何か分からない。煙の黒と白、それに光の赤が油絵の具のように混ざり合い、そうかと思えば、初めから色などなかったかのように、すべてが灰色で、無機質だった。


 そう……。これが、人が作り出した世界の姿。


 一定の形を失ってしまえば、もう、それが何か分からなくなる。


 自分が住んでいた家が眼下にあった。やがて、それも崩壊を始め、地面へと引き摺り込まれていく。


「ほら、世界が終わった」私の中で少年が言った。


 私は何も応えられない。


 息を呑んでいた。


 実感を取り戻すために唾を飲む。


「君がやっているのなら、やめてほしい」私はようやく声を出した。


「どうして?」少年は首を傾げたみたいだった。「この世界は、僕の、いや、君のドッペルゲンガーだよ。僕と君が補完され、一つの終わりを迎えたことで、この世界も終わったんだ。この世界は、ずっと君に頼って在り続けてきた。君にほかの人間の思考を読ませる、つまり、考えることを君にアウトソースすることで、なんとか在り続けることができた。でも、君は僕と補完されることで、その作業をやめた。彼らのすべてを引き受けることをやめたんだ」


「私のせいだって言うの?」


「誰のせいでもないよ」少年の声は落ち着いている。「君を生み出したのも、この世界に他ならない。そういう在り方を望んだのも、この世界には違いない」


 ビルも、道路も、信号も、ショッピングセンターも、駅も、バスロータリーも、何もかも……。


 仕舞いには、地盤ごと闇の中へ葬り去られて、消えていく。


 気づくと、両目から涙が溢れていた。


 大した粘度もない。


 はらはらと頬を伝って涙は流れ、滴の一部が眼下の都市の亡骸に零れていった。


 不意に後ろを振り返ると、山の向こう、背高草の丘の先に、小さな公園が見える。


「さあ、帰ろう」少年が言った。「僕たちがいるべき場所はここじゃない」





 目を覚ますと、リビングの中だった。


 背の低い机にへばりついていた髪を掬い取るように頭を持ち上げ、片手で目を擦る。口から流れた涎が乾いて、頬に奇妙な感覚を生じさせていた。


 欠伸。


 目の前で、ノートパソコンのディスプレイが光っている。電源を入れたまま眠ってしまったようだ。


 画面の中では、一定の速度で次々と文字列が出現していた。目で追えないほどではないが、すべてを読もうとすると面倒臭い。しかし、それを打っているのは、自分と同じ人間だ。相手は同じ生き物なのに、少し変な感じがする。どうしてこんなことができるのだろう、という違和感。そして、自分にはこんなことはできない、という疎外感。


 私はノートパソコンの蓋を閉じて、声を聞くのをやめた。


 立ち上がって、伸びをする。


 室内を歩いて硝子扉の前に行き、それを開けてベランダに出る。


 外では雨が降っていた。


 耳を澄ませると、その軽快なメロディーが聞こえてくる。


 鳥の鳴き声も聞こえた。


 綺麗。


 そうだ。


 もしかすると、さっきの人たちも、鳴き声を上げていたのかもしれない、と思いつく。


 そう思えば、少しだけ、自分とも通じる部分があるような気がした。


 玄関のチャイムが鳴る。


 後ろを振り返り、私は玄関の前まで歩いていく。


「やあ」


 ドアを開けると、その先に見慣れた少年が立っていた。


 彼は私のドッペルゲンガーだ。


 彼が何を考えているのか、何を思っているのか、私には分からない。


 何も聞こえない。


 そう、聞こえなくて良い。


 彼が何を考えているのか、それを考えたり、彼が何を思っているのか、それを思ったりする方が、きっと、面白くて楽しいから。


 声も、言葉も、すべてではない。


 私は彼を室内に招き入れる。


 そういえば、駅前の雑貨屋で買ったクッキーがあったはずだ、と思い出す。


 ドアは静かに閉じられた。

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