Ferry Love
船着場で行ったり来たりする人々を眺めながら、私はあの古いアパートのことを思い出していた。
家族三人で暮らしていたあの狭いアパートを抜け出して、夜によく会いに行っていた人がいた。彼はいつも私の話を聞いてくれた。
彼の話は面白かったけれど、彼が自分の話をすることは滅多になかった。だから、私は彼についてほとんど何も知らないと言っていいかもしれない。
でもそれでよかった。私たちは互いのことを詮索したりしなかったし、一緒にいるだけで満足だったのだから。
ある日、彼がこの海が見える静かな街を出ていくと聞いたとき、寂しいとはあまり思わなかった。
知らせについてはむしろ嬉しかったくらいだ。彼の門出を見届けられるのは嬉しいことだった。
「この街では間違いばかりしたから、次の街では気をつける」
なんて言っていたっけ。いまだに意味はわからなくて、胸の内側に張り付いている。
これでもう会えなくなるという日になっても、別れの言葉は口にできなかった。私たちは示し合わすこともなく、ただ黙って抱き合い、それからそれとなく、好きだと伝えた。
彼は笑った。
でも実らなかった。
フェリー乗り場で交わしたささやかな愛が、哀に変わっていったのを覚えている。
――船がやってくるまであとどれくらいだろう?
そんな話をしていた時、本当に彼にはもう会えなくなってしまうということがわかった。そして、それはとても自然なことに感じられたのだ。
私は彼に会うべきではなかったのかもしれない。それでも、どうしても彼だけはこの街の記憶にしっかりと残ってしまっている。
「またいつか会える?」
と訊く私に、
「うん、きっとね」
と答えた時の笑顔も、声色もはっきりと覚えている。
あれから何年経って、季節が何度変わったかわからない。気づけば私は大人になって、今度は若者たちを見送る番だ。
彼とはまだ、会えていない。
・――――――――――・
船着場で、汽笛が鳴る。
港の向こうに見える空の色は、青くて、眩しくて、澄んでいる。どこまでも広く続いていて、吸い込まれてしまいそうだ。
彼と初めて会った日も、同じ色の空が広がっていた気がする。
あなたは今頃何をしてるんだろう? どんな夢を持って、どこに向かって歩いているんだろう? 私には知る由もない。
ただひとつわかることは、今もまだこの青い空が続いているということだけだ。
私は伸びをして、息を大きく吸う。潮風に乗って流れてきた懐かしい匂いは、私の胸を通り抜けてどこかへ消えていく。
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