風街のふたり

 りんごが坂から落ちてきてから、私の生活は見違えるように変わってしまった。


 私は思い出した。いや、改めて知った、と言うべきだろう。


 この街の景色が記憶と随分変わっていたこと。若さがどれほど美しいものであったか。そして私に埋もれたたくさんの思い出たちの、美しさと切なさの全てを。


 りんごを携えてきたあの少女と過ごしていた時のことを、窓の向こうの海を見つめながら思う。


 一人に慣れ果てていた私のもとにやってきたその少女は、天真爛漫という言葉だけでは形容できない程に元気だった。


 歳をとって乾いた絵の具のように凝り固まった私の頭を、彼女は溶かしてくれた。


 彼女は旅人だ。大人になったら、きっとこの街にも戻ってくるだろう。


 その時はもう私はここにはいない。私の周りにあるたくさんの絵も、額縁も、骨董品や瓶に刺した花でさえも。


 ああ、あの頃ではなく今を歩いていくことというのは、どうにも難しいものだ。


「おじいさん」


 ふいに声をかけられて振り返ると、あの時と同じ様にりんごを差し出す女性がいた。私が知っているよりずっと成長した、しかし変わらない笑顔を浮かべて。


「久しぶり。いっしょに食べよ」


 そう言って差し出された真っ赤な果実には雫がついている。私はそれを受け取って微笑んだ。


「大きくなったな」

「おじいさんは、かわらないね」


 別れを残酷だと表現することもできれば、出会いを奇跡と呼ぶこともできるだろう。こうしてまた出会えたのだから。


「また会えたね」

「うん」


 彼女が再びここに来ることも、こうして二人でりんごを食べることも。


 それがどんな形で訪れたとしても、それは偶然ではないのだ。


「おじいさんの絵、飾ってるよ」

「そうか」


 私はウッドチェアに体を預け、目を閉じて深呼吸をした。それからゆっくりと目を開くと、目の前に広がるのは見慣れたアトリエの天井。そこには老いた私と書きかけのキャンバスが置いてある。


 彼女は、いない。


「……まだ、慣れんな」


 記憶の彼女に話しかけていたのか。それともただのひとりごとなのか。自分でもよくわからないまま呟いて、少し笑った。


 あの少女の成長を、私はこれからも願おう。いつかまた会う日が来なくても。


 風の吹くこの街は、君を待っている。それをどうか、覚えていてほしい。

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