E-flat

 仕事の先輩が、新入社員の私にいつも視線を送っていることには気づいていた。


 身長の高い彼が見下ろすようにこちらを見ていると、自然と目線が合ってしまうのだ。


 私は彼に話しかけるでもなく、また彼も私に声をかけてくるわけでもない。ただなんとなく、お互いに「あぁいるな」と認識しながら日々を過ごしてきたと思う。


 そんなある日のこと、私が仕事から帰るときのことだった。彼はその日、店の裏でタバコを吸っていた。


(……へえ、タバコ、吸うんだ)


 私は性根からタバコが苦手なので、なんだか少しショックだった。


 そして、「ショック」を受けた自分自身にも驚いた。別に彼のことなんて好きじゃないし、むしろ苦手だと思っていたはずなのに……。


 そんなことを考えていたら、ふいに彼と目が合った。彼はなぜか慌てた様子で顔をそらすと、そのままタバコを地面に落として踏み消してしまった。


「ハラカワさん、タバコの煙、苦手でしょ」


 そう言って彼は笑った。初めて見た笑顔は、意外にも優しく穏やかなものだった。


「よく分かりましたね……」

「分かるよ。だって俺も同じだからさ」


 同じ? 何が同じなの?

 さっきまで吸ってたじゃん。


 よく分からなかったけれど、とりあえず曖昧に微笑んでおいた。すると彼は照れたような表情をして言った。


「実は……、俺も煙ダメなんだよね。ダメって言われてんのに、隠れて吸ってんの」


 それからというもの、私たちの間には妙な空気が流れ始めた。


 仕事中はもちろんのこと、休憩時間や帰り道など、まるで示し合わせたかのように二人きりになる瞬間があった。


 その度に、私たちはささやかに語り合った。まるで風に連れられるように、私たちは距離を縮めていった。


 心の中には、彼の魅力から救ってくれないものかと願っている自分もいる。しかし一方で、このままこの静かな関係を続けていたいと望む自分もいた。


 彼には婚約を控えたガールフレンドがいるらしい。いつかはその女性と結婚することになるんだろうな。


 それがわかっていても、時たま彼の言動に胸が苦しくなる時があった。きっとこれが、トキメキというものなのだろう。いけないことだと、わかっているけど。


 夏が終わりかけた頃、私は一つの風を待っている。彼の優しさや微笑みから私をすくう風だ。


 彼への想いが溢れ出すような風に乗ることは、できない。それでも私は、構わない。多分。きっと。大丈夫。


 くだらない話に笑いこけて涙ぐむ彼の笑顔を見つめながら、そんなことを思っていた――――。

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