三度目の交渉
勇者アウルが三日と待たずにフォルジェリ邸に現れ、使用人の少年は彼の怖気を喚ぶ瞳の意味を悟り涙目になった。
そのとき館の主グスタフは、オーグを連れて食堂にいた。窓に差す陽を浴びてなお陰の濃い顔色。面倒そうに銀のナイフを取り、焼色も美しい肉の一片を切り口に運ぶ。しかし、喉を通らないのか投げ出すようにして食器を置き、ワインの注がれたゴブレットを一息に煽った。給仕が新たに継ぎ足すと、グスタフは千切ったパンをワインに浸し口へ押し込む。
「――し、失礼いたします、ご主人さま! あ、アウル様がお見えになられていて――!」
少年の声に、グスタフはオーグと顔を見合わせ、勝者の笑みを浮かべて少年に振り向く。
「通せ。それと役立たず共もここに呼べ」
急ぎ足で遠ざかる少年の背を見送り、グスタフは給仕に言った。
「もういい、葉巻をもってこい。ウィチカンの葉巻だ。間違えるな」
ウィチカンの葉巻は強烈な鎮静と酩酊をもたらす禁制の品である。古くはカルガ族の巫女が儀式の際に噛んだ薬草の一種とされ、使い方を誤れば魔の者に憑かれるとして栽培は元より販売にも使用にも厳しい罰が待っている――表向きには。
「主様」
オーグが低い声で言った。
「お控え下さい。相手は勇者です。匂いで悟られます」
ウィチカンの葉巻は独特の苦甘い匂いをもつ。果実の腐臭に似ているが、一部の魔獣の脂が似た匂いをもつため密かに常用する冒険者もいる。もっとも、非常に高価であり、王族をはじめとする貴族や、彼らに仕える冒険者がおこぼれに貰う程度ではあるが。
「悟られたからなんだと言うんだ?」
グスタフは給仕からウィチカンの葉巻を受け取り鼻筋に這わせた。燭台の蝋燭を取らせて火を灯す。口の端から漏れる煙は通常の葉巻とは異なり僅かに赤みがかかっていた。
彼に役立たずと言われた傭兵達が食堂に集まり、入り口を固める。ほどなくして靴音が響き、使用人の少年がアウルを伴いやってきた。
「昨日の今日で悪いね、グスタフ」
そう言って気安く片手を挙げる青年の双眸はまさに暗黒――あるいは磨き抜かれた銀食器に歪んだ像を結ぶ、グスタフ・フューリアス・フォルジェリの眼に同じ。
勇者という、愚か者に希望を与える者の瞳ではない。
「それで? 一日で帰ってきて娘を連れていないのはどういうわけだ?」
グスタフは家畜と同等以下の存在として眼に映す。ウィチカンの赤い薬煙を太く吹く高圧的な態度は、彼の血走った鈍色の瞳が湛える昏い気配と、彼の背に滲む石のように冷たい邪悪に支えられていた。一方でアウルも動じない。彼も同じ気配を持つ。
「返答をもらってきたんだよ」
言って、アウルが懐から丸めたハンカチを出した。黒く乾いた血と苔のまじる緑がかった泥に汚れているが、刺繍されたフレジェリ家の紋章が見てとれる。
アウルは悠々と歩き、オーグの制止すら無視してグスタフの前に置いた。恐れなど微塵も感じられない。彼を支えているのは圧倒的な武力である。グスタフの手が伸び、ハンカチの包みを開くと、青黒く変色した指があった。鋭い刃物を使い第二関節の根元ちかくで切断されている。断面はすでに乾き、細い骨が異様なほど白く見えた。
「『連中からの』最後通牒だそうですよ。『金を寄越せ。三日以内に』とか」
淡々と告げるアウル。オーグが息を飲み、兵士達に目配せをした。微かな金切り音を立てて一斉に剣を抜いた。
グスタフはウィチカンの葉巻を吸い、煙を指に吹きかけた。
「……フッ」
唇を吊り、大口を開けて笑った。
「フハハ! フハハハハハッ!」
オーグもまた剣を抜いた。使用人の少年が泣きながら逃げだす。広い食堂にグスタフの哄笑がこだまし、アウルを除くすべての人間に氷のような汗をかかせた。
「ハハハハハ! フハハハハハハハハ!」
ひとしきり笑い、グスタフは満面の笑みを浮かべて背もたれを軋ませた。
「連中――連中か! お前がやったんだろうが! 愚かなことをしたな、アウルとやら!」
「俺が? まさか。俺は交渉役だって言っただろ?」
「黙れ悪党。アウルといったか? 名前だけは覚えてやろう。躾をするには名前がいる」
「無理して覚えなくていいよ。俺は返答を持ち帰るだけだしさ」
「返答。返答か」
グスタフは冷酷に笑みを深めながら、葉巻を皿に立てかけるようにして置いた。そのまま手を滑らせて腐り始めた細い指を取り、ガリ、と音を立てて唇の端に咥えた。動揺はオーグ達にこそ強く働いたのか、彼らの足を半歩も後ろに追いやった。
「この指一本が如何に高くついたか教えてやろう。『もうこれに価値はなくなった』」
言って、グスタフは指の関節に歯をかけ、強く噛み締めた。肉が裂け筋が絶たれゴジリと鳴った。アウルの両眼を見据えたまま口から突き出た指先を握り、力任せにこじった。鈍い音とともに指が逆側に曲がり、隙間に犬歯が沈んだ。捻り、引っ張ると、皮膚と糸状の線維が粘着質に伸びきり、耐えきれず千切れた。醜い咀嚼がはじまった――。
指を喰らう狂気に兵士が剣を下げて口元を覆った。目を背ける者もいる。おそらくは何度も似た光景を眼にしたであろうオーグすら瞼を落とした。
「それが返答?」
アウルが尋ねると、ブッ! とグスタフが口に含んでいた指を吐きかけた。短くなった指は胸元めがけて飛んだが、彼は予見していたかのように躱した。
「もう価値はない。――いや待て、どうせなら殺して首をもってこい。生きていられても迷惑だ。代えを立てられんからな。死体でも構わんが、とにかく死んだという証が欲しい。『連中に伝えろ』。猶予は一日だ。もし私のところまで持ってきたなら、死を願うことを許してやる」
アウルは皿に置かれていたウィチカンの葉巻を取り、一服ふかした。
「酷い親父だな。でもまぁ、一応、聞いとこう。俺が助け出してきたら、いくらくれる?」
グフッ、とグスタフが吹き出した。嬉しそうにゴブレットを手にして一息で胃袋へ落とす。
「その吸い止しをくれてやる。お前の命をいくつ乗せても秤を動かすに足りん上物だぞ」
「……なるほど。たしかに上物だ」
アウルは眩しそうに瞬きしながら葉巻を見つめ、食卓から香辛料の収められた小瓶とパンを一つ取った。
「ついでにこれももらっとくよ」
言って、アウルは葉巻を顔の前に捧げ持つと、手放すと同時に目にも留まらぬ速さで短剣を抜き、くすぶる葉巻の先端を切った。そして、落下を始める前に短剣を鞘に収め葉巻を手に取り直す。一瞬の早業。当然のように人の領域を逸脱していた。
「それじゃ、ありがたく頂戴して、失礼いたしましたー……」
クルリと背を向け歩きだす、アウルの背中に、グスタフは言った。
「拐ったまでは良かった。だが、最初に来るときに連れてくるべきだった。そうだろう?」
アウルは肩越しに一瞥くれただけで、何も言わずに食堂を出て行った。
姿が消えると、食堂にオーグと傭兵達の焦燥が広がった。
「主様……! よろしいのですか!?」
オーグが問うと、グスタフは鼻を鳴らした。
「お前達が手を出したところで勝てんだろう。違うか?」
「それは――しかし、お嬢様のためならば私は――」
「くだらん。お前も口先だけで喋るようになったか?」
グスタフの鈍色の瞳は深淵そのもの。杖を寄越せとばかりに手を振り、受け取ると、厳しく床を突いて傭兵達の視線を集め、顎先で食卓を示した。
「食っていいぞ。腹を満たせ。明日の夜には死んでいるかもしれんのだからな」
その冷え冷えとした声に、傭兵達は立ち尽くすばかりだった。
*
「全っっっ然、ダメだったわ!」
家の扉を開け放つなりアウルは自嘲気味に吠えた。暖炉の傍の席につく二人――エルロはうわぁと声を漏らしながら顎を落とし、フラウはこの世の終わりのような顔をした。
「あのオッサン、イカれてるよ。くれてやった指どうしたと思う?」
「ん……」
エルロが小首を傾げて言った。
「食べた?」
「うわ。半分正解。っていうかほぼ正解。噛みちぎった。意外と気が合うんじゃないか?」
言って、アウルはポケットからウィチカンの葉巻を抜きエルロに投げた。
「ほれ。戦利品。ウィチカンだ。故郷の味だろ? そんで、フラウにはこれ」
手にしていたパンをフラウの前に置き、椅子に腰掛けポケットから香辛料の小瓶を出した。
「俺にはこれ。どれが一番お得だったのかね」
蓋を開けて嗅いでみると、いつもの食卓にはない芳醇かつ刺激的な香りがした。少なくともこれまでより一段上の食事になりそうだ。
「故郷の味……より良いかもしれない」
エルロは葉巻を鼻に当てて言った。カルガ族の巫女の評価がそうなら間違いない。上物だ。
「まぁ、とりあえずメシ食おう、メシ。スパイス取ってきたからいつもより美味いぞ」
嫌なことは食事で忘れるに限る。アウルはいつもの煮込みを席に並べ、奇術師の手つきで小瓶を開いた。たった一振り。質素で素朴な味に慣れた舌と鼻はそれだけで魔法にかかる。
さぁ食べよう、とアウルも席についたが、フラウは手元のパンを見つめるばかりだった。
「……どした? フラウの家のパンだ。懐かしの味だろ?」
「…………お父様は、なんと?」
「……その話はメシのあと。食べとけ食べとけ。二度と食えないかもしれないぞ?」
冗談めかして言うと、フラウは疲れたように頷きながらパンを掴んだ。
その左手には、五本の指が揃っていた。
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