人質の価値
「ただいま――って、何を遊んでるんだよ」
森の家に帰るなり目に飛び込んできた情景に、アウルは思わず呆れ声で尋ねた。エルロとフラウが、テーブルの角を挟むようにしてウォーゲームに興じていたのだ。
「ん」
エルロがピクンと顔をあげた。
「おかえり、アウル」
「おかえりなさいまし。いま大事なところですからお静かにしていただけまして?」
フラウの方は顔すらあげず盤面に見入っている。白熱しているのだろう。アウルは奇妙な和みに頭を掻きつつ手近な椅子に腰を下ろした。
拐ってきてからほんの数日。されど数日。
嘔吐するほど痛めつけられ回復し、涙を流すほど脅されて回復し、脱出の希望を丹念にすり潰されて回復し――今ではフラウのに言うところの下々の人間がすべき仕事も手ずから行うようになっていた。
彼女の強靭な精神力がそうさせたのか、それとも何度も折れ砕けるうちに曲がったか。いずれにしても、今ではこの家の住人と言われても驚きはない。
「――ッ! 見つけましたわ! これぞ勝利の一手!」
興奮した様子で言い、フラウの細い指先が駒を動かす。来たときは少し大柄なだけで透き通るようだった手も、今では泥土と獣の血脂が染みてくすんでいた。
「ん」
エルロの手が間髪いれずに駒を動かす。
「その道の先は崖」
「ふふ! 余裕綽々でいれるのも今の――うち……!?」
手早く盤面が進むにつれてフラウの形の良かった眉が歪む。慣れない仕事の疲労と食事の変化のせいなのか、そのご尊顔にも微かに獣性が滲みはじめている。特に、やり場のない怒りを燃え上がらせたときに顕著だ。
元から吊り目がちな双眼が鋭利に光り、唇は骨を食む魔獣のように歯を剥き出す。駒へ伸びた手が宙で止まり、震え、憎悪すら滲む毒矢の眼差しをエルロに射掛けた。
「わたくしを……ハメましたわね……?」
「ん。そういうゲームだからね」
余裕綽々に腕を組むエルロ。フラウは手を引っ込めて陽炎すら立ちそうな低い声で言った。
「参りました。わたくしの負けですわ……」
んふぅ、とエルロが満足げに鼻息をつき、櫛をフラウに見せつけた。
どういう儀式なのかと見ていると、エルロが床を鳴らしながら椅子を回してフラウに背を向け、フラウはフラウで低く唸りながら受け取った櫛をエルロの髪に通し始めた。
「もう今日は寝るだけだぞ?」アウルは一つ二つと瞬き言った。
「ん。知ってる。でも明日の朝の分も入ってるから」
呑気なものだとアウルはテーブルに片肘をつき顎を乗せる。
「敗者は勝者に従うもの――常世の定めですわ。功績には賞を与え罪には罰を与えますの」
涼しい顔だが、フラウの櫛を持つ手には力が籠もっていた。
「……功績に賞を、罪には罰を、か」
呟くアウルに、エルロが振り向く。すかさず、
「ちょっと! 動かないでくださいまし!」
とフラウが抗議し、エルロは肩越しに一瞥、アウルに尋ねた。
「ん。フラウのお父さんはなんだって?」
櫛を握る手がフラウの止まり、こくりと小さく喉が鳴った。
「おととい来やがれって感じだな。『銅貨一枚たりとも払う気がなくなった』だと」
淡々としたアウルの声に、フラウの手が震えながらエルロの髪を離れた。
「……お父様が、そう仰ったんですの? 本当に?」
「そうだよ。俺も驚いた。たった一人の娘が可愛くないのかね? っていうか、俺あの家で一度も奥様にお目にかかってないんですけど、どうなってんの? 貴族の母親とか、そりゃ息子のほうが可愛いだろうけど、娘はどうでもいいのか?」
「……お母様は、わたくしが生まれてすぐ亡くなられたそうですわ」
フラウの声が重く黒くなっていく。
「だったら余計に可愛がりそうなもんだけどな。どんなにイカれてても親は親だし、自分とこの子供と他所の子供は違うだろ」
アウルは潰れるようにして顎をつけ、両親を思い出して、つい吹き出してしまった。貴族と庶民は根本が異なると思っていた。思考の流れも違うと。まして信じる神が違うならと――。
貧民にとって子の価値は労働力でしかない。働けないなら野ざらしで死ぬ。望まぬ子なら生まれてすぐ死ぬ。長じても飼う労力に見合わないなら売る。資産の一つだ。手負いの獣がそうするように、守れないなら囮にする。必要ならまた作ればいい。
「ん」
とエルロが椅子から飛び降り、暖炉に太い薪を一本焚べた。
「やっぱりおんなじだ」
「同じだなぁ」
アウルもぼやきで同意する。
エルロの両親は早くに亡くなっているが、彼女自身はカルガの集落で生かされてきた。巫女として有用だったからだ。生活苦に喘ぐガンツィでも、アウルは生かされてきた。他人より早く狩りを習い、嫌われないよう気を払い、偶然にも森で祭壇を見つけ、森を出られた。ジーと出会った時、あの頃なら一太刀で殺せるところを生かしてもらえた。有用だったからだ。
「……じゃあ、お前は?」
アウルの昏い目がフラウを捉え、大柄な彼女の両肩を震え上げさせた。同じじゃないのか? と、無言に問う。答えはない。ならば代わりに言ってやるしかない。
「役に立たないんじゃ、いらないわな」
「ん」
とエルロが小さく挙手した。
「フラウは使えるよ。いると便利。私より背が高いし。まだ知らないことも多いけど、教えればいい」
懐きはじめているのだろう。エルロはフラウの擁護をしたいようだった。便利――つまり労働力としての価値はある。それは誰にだってある。けれど。
「そのためだけに手元に置くのは危険すぎるだろ。天秤に乗せたら安全が勝つ」
フラウは判決を待つ罪人のように手元を見つめていた。
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