人質つきスローライフ

 不気味な森だった。古くから夜にエルフの森に入るのは自死に等しいと伝わるが、近接領域でしかないはずのその森は、獣や虫の声もなく、生ぬるい風と葉擦れの音に圧迫された。


 女は夜闇に溶ける濃紺の外套の下で冷や汗を拭った。女は、密偵としてグスタフひいてはオーグの下に仕えてきた兵である。生まれこそ力ない商人の娘で借金のカタに引き渡されただけだが、見目と捨て鉢からくる度胸で敵対する貴族や商人の屋敷に幾度となく潜入を果たしてきた。白兵の腕はそれなりでも斥候としての技能はグスタフの手勢のなかでも最も高い。


 しかし、その女をして、勇者の尾行は細心の注意がいるようであった。


「……なんなんだ、この森は」


 女が呻くように零す。勇者を自称する男の足跡を辿れ――勇者とは、傭兵と地平の異なる実力者とされている。白昼の追跡など容易ではない。まして森までの田舎道は進むにつれて人馬も減る。振り向かれたら終わりだ。夜を待つ他に術はなかった。


 女は道に残る靴跡を撫でて唇を引き結んだ。道の先にも同じ靴跡が見て取れる。月明かりだけで視認できてしまう。


「簡単すぎる……誘い込まれているのか?」


 自らに問うように吐き捨て、女は黒いフードを目深に被りなおした。気配が夜闇の奥に溶けて消える。流れてくる風が人の煮炊きの匂いを乗せてきた。


 女は顔面の汗を拭い、口元に黒面布を巻いた。見張りを警戒したのか道を諦めて森に分け入る。草木の音も消す足運び。オーグの元で鍛錬を積んだ証だ。


 木々の向こうに拓けた土地が見えた。奥に石造りの家。煙は確認できない。女は気配を殺して接近していく。家の周囲に身を潜められそうな木陰はない。


 女は抜けてきた森に振り向く。勇者の隠れ家であればいいが、もし違えば――


「行くか、待つか……」


 女の喉が鳴った。


「……もし、お嬢様を連れ帰ったとしたら……」


 面の下で唇を湿らせ、女は身震いしながら夜空を見上げた。しばし思案し、やがて腹ばいになって木陰を出る。畑だろうか。土塊に混ざり、糞尿と獣の血肉の匂いがした。


 時間をかけて、少しずつ、少しずつ進み、畑の途中で女が止まる。手足を微かに震わせている。しきりに左右を見、息を呑むように俯き、肩越しに硬く強張った顔を振った。無音のなかに、魂をも砕こうという殺意。


 ぼぎゃり、と女の右腕が肩から千切れて宙を舞った。


 悲痛を叫ぶ女の声は、夜の森に沈んで二度と浮き上がらなかった。

 

 *


 翌朝。アウルは畑――というかざっくりと耕して肥やしもどきをばらまいただけの荒れ地の真ん中で首をたれ、ため息をついた。頭を掻きながら家に取って返し木桶を掴むと、床の上で膝を抱えるようにして震えるフラウを見やった。夜分の悲鳴に飛び起きてから眠れなかったとみえ、目の下に色濃いクマがついている。


「……おい、フラウ、ちょっと手伝え。メシの前に一仕事だ」

「な、な、なんですの……? わたくしになにをさせようと……?」

「昨日の夜の悲鳴を回収すんの」


 アウルは暖炉前で寝ぼけ眼を瞬かせるエルロを見やった。


「パナペペ、俺と一緒にいればフラウを襲ったりしないよな?」

「ん」


 とエルロは振り子を仕込んだ人形のようにかっくり頷く。


「だいじょうぶだよ。……だいたいにじゅっぽくらい? かな? はなれすぎなければ……あふわ……」


 エルロは大口を開けて欠伸をした。珍しい光景だ。昨晩遅くの騒ぎで叩き起こされ、その後は目が冴えて眠れなかったのかもしれない。


「よっし。それじゃそれじゃちょっと片付けてくるからエルロは顔を洗ってメシを温めといてくれ。寝ぼけてると火傷するから気をつけろよ?」


 アウルは空いてる木桶をもう一つ掴み、フラウに投げ渡した。


「フラウは俺とお掃除だ。放っておくと獣が集まってきて面倒くさいことになる」

「け、獣?」


 呆然と呟いて、フラウは顔を青ざめた。


「い、嫌ですわ!? わたくしに何をさせようと言うんですの!?」

「ただの掃除の手伝いだよ。ちょっとは働け。メシ食わせてやってんだから」


 言って、アウルは嫌がるフラウの首根を掴み外に出た。玄関ポーチの手すりにたてかけておいた鍬を肩に担ぎ、荒れ地の中ほどに来ると、猛烈な死臭にフラウが嘔吐した。


「おーい。いきなり吐くな……いや、あとで灰まぜときゃいいか。とりあえず、そこらへんに散らばってる腕とか拾って集めてくれ」


 悲惨だ。追跡者は四肢を圧倒的な力で破壊され、周辺に臓物をぶちまかれた。破壊される間どのくらい生きていたのだろう。半分ほど土中に埋まった顔は苦痛と恐怖に歪んでいた。ちぎれた皮膚片の奥に白い骨が覗き、崩れた脳髄が見えた。乳に灰を混ぜたような色をしていた。


 アウルは髪の毛を掴んでゴトリと桶に落とし、比較的大きな肉塊から順番に拾っていく。ふと振り向くと、フラウは嘔吐するばかりでまともに働いていなかった。


「……おぉーい……口じゃなくて手を動かせよ、手を」

「ゥ……グブ、こ、こんなの、こんなのわたくしできませんわ。だって、これ、この方は」

「何だよ? 知り合い?」

「わたくしの……ウッ……わたくしの家で働いていた、メイドの一人ですわ」

「メイドぉ……? ああ、使用人か。そんなら気にすることないだろ? 昨日の調子を忘れるなよ。自分とは違うゴミみたいな生き物なんだろ? 拾って、桶にいれる。それだけだって」

「わ、分かっていましてよ!」フラウは固く目を瞑り肉片に手を伸ばした。「で、でも……でもわたくしは……ッ!」


 震える声に苦笑しつつ、アウルは桶を持ち上げ関節の増えた脛を拾う。


「でも、なんでござんしょう?」


 古めかしく言いつつ首を振ると、フラウがちょうど手首から先をつまみ上げていた。


「わ、わたくし、この方と、仲良くしていただいて……!」


 その言葉に、アウルは思わず吹き出してしまった。

 ゴトリと桶に手首を落とし、フラウが涙目で叫んだ。


「なんですの!? なにがおかしいんですの!?」

「なんでってそりゃ」


 アウルは腹を突き上げてくる笑いに耐えながら答えた。


「仲の良かった奴を嫌そうにつまんでるから、可笑しくって」


 耐えきれなくなり、アウルは声をあげて笑った。


「ハハハ! 仲良かったってお前、よく言うよ! この子からすりゃ、仲良かないだろ!」


 ひょいひょいと千切れた足やら指やらを拾い集めて桶に入れ、アウルは鍬を大地に振り下ろし、血と拾いきれない肉片と無駄に広く散らばる乾いた血液を土に混ぜ込んでいく。


「――っていうかさ、いずれは戦場に出るつもりで鍛錬してたんだろ? こんなんでいちいち吐いてたら躰がもたないぞ? 実戦とか、もっと臭いし、もっと汚いんだから」

「う、クッ、ウゥ……う、うるさい!」


 吠えるように一息放ち、フラウは転がる腕を拾い上げ、木桶の奥に突っ込んだ。


「……もっと優しくやってやれよ。その腕の持ち主と仲良かったんだろ?」


 そうからかうと、フラウが口元を押さえてしゃがみこんだ。アウルは笑った。呆れるほど不気味な話ではあるが、人が人の形のままなら思う部分があってもバラバラなら物にしか見えない。丁重に弔ってやってもいいが、そんなこと、死者には永遠に分からないように思える。


 死体を集め終えると、肉を吊るしてある納屋に木桶を持ち込み、アウルは虫よけの香を焚いた。いずれは畑の肥やしにするか墓の下だ。


 フラウは死人のような顔色になり、朝食を食べられなくなった。桶から突き出る手足が瞼の裏にちらつき、シチューに浮かぶ肉に吐き気を覚えるという。ならば、できる仕事は少ない。


 ――薪割りである。


 肉体労働に殉じるフラウの傍では、エルロが強い臭いを放つ獣脂の濾過を行う――これは昨日の仕事を怠った罰でもある――そのあいだに、アウルは革の鞣し作業だ。


 あまりに平和で、ゆっくりと流れていくひととき。

 昼食は、せっかく貴族がいるのだからとフラウに任せてみたところ、彼女は肉をさばくことすらできず、けっきょくエルロが森で摘んできたハーブを使い鹿肉を焼き、パンに挟んだ。


 そして、また仕事に戻る。

 フラウは慣れない薪割りにあえぎ、膨大にあった獣脂の濾過作業にエルロが音を上げ、アウルはアウルで毛皮の燻作業に飽きてきた。できることがなくなれば家に戻り食事だ。暖炉の火を熾し、炭受け皿に置き、鍋をかける。


 エルロは熊から取った脂を軟膏代わりにして、フラウの両手首についた縄の痕に塗り込んでいた。見る限り、もはや抵抗の意志は失われているようだった。


 シチューを平らげ、次に街に出るときは野菜を買ってこようと決意して、ワインと葉巻を肴にウォーゲームに興じる。穏やかで納得のいく一日だ。労働がなければ最高だった。


「……それ、どういうルールなんですの?」


 二人の対局を見つめ、フラウが呆れたように呟いた。声は薪の爆ぜる音に混ざった。


「ん?」


 とエルロが興味深げな眼差しを向け、誘うように言った。


「フラウもやる?」

「よく似た遊びは知っていますけれど、わたくし、それはやったことがありませんわ」

「簡単だよ。フラウの知ってる奴と基本はおんなじ。いくつか違いはあるけど大したことじゃない。代わるか? 俺はまた負けそうだ」


 回数を重ねるごとにエルロは強くなり、アウルは以前と変わらない。真剣なつもりでも成長がないのだ。向いていないのだろう。考えていた手を無視して直感に従ってしまう。


「ああ、ほら見ろ、クソ。また負けだ。フラウ。交代」


 アウルはほとんど投げやりになり、席を譲った。


 時間が、ゆっくりと過ぎていく。

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