エルロとフラウ

 アウルが家をでてしばらく、エルロは薪の爆ぜる暖炉を背にして本を読んでいた。すぐそばにはあらためて両手を縛められたフラウがいる。暖炉の脇には腹が減ったら温めろと言われたシチューの鍋と、昼用の猪肉があった。肉を厚く削ぎ斧の背で叩いたのち塩をまぶして薄布を巻いてある。エルロ自ら料理をするのは稀だが、アウルの下ごしらえがあれば話は別だ。


「……それ、何を読んでいますの?」


 腹も膨れて落ち着いてきたのか、薄汚れた毛布に横たわるフラウが気だるげに言った。

 ん? とエルロは目線を向けたが、すぐに本に戻した。


「共通語? の教本だよ。ギルドで買った。話すのはできるけど、読んだり書いたりするのが苦手だから勉強してるんだよ」

「……本当、あなた達、なんなんですの? 正気?」


 呆れたと言わんばかりの声に、エルロは不思議そうに振り向いた。


「正気? どういう意味?」

「どういうって……たとえば、そうですわね……人を傷つけないとか」

「フラウだって傷をつけてたよ。あんなに人を集めて、一人でいい気になって」

「あ、あれは練習ですわ!? 修練ですの! 普通でしてよ!?」


 狼狽するようにフラウが躰を起こした。


「ん?」

 

  エルロはしばらく上向き、瞬きを送った。


「私とアウルも普通だよ」

「普通!? 普通じゃありませんわ! あなた達、わたくしを拐って――」

「普通だよ」


 エルロはアウルに渡されていた安葉巻の箱を開け、一本、唇の端に挟んだ。火ばさみをとって暖炉から炭を拾い、火を移す。プコっと煙を一つ吐いて続けた。


「フラウのお父さんも同じような――もっと酷いことをしてたんだよ。だから、私達も普通だよ」

「な――だ、だからそれは! ただの噂だと言っているでしょう!?」

「そうかもね」


 エルロはボサボサの髪に手櫛を通した。


「見てみる? ここの家の人の日記」


 フラウの眉間に細かな皺が寄った。


「ん」


 エルロは小さく頷いた。


「取ってくるから待ってて」


 エルロはトコトコと部屋の扉に向かい、思いついたように振り向いた。


「外に出たらダメだよ? パナペペはフラウのことが好きみたい。カルガの秘術だから私でも制御できてるけど、私かアウルが傍にいないと――じゃれはじめるかも。わかった?」

「わたくし、そんなに物覚えが良くないように見えまして?」

「ん。ちょっとだけ」


 エルロは唇の端を微かに吊り上げ、葉巻の煙を残して部屋をでた。小さな足音が遠ざかっていく。扉が閉じられてからさらに五秒ほど待ち、フラウはフンと鼻を鳴らして立ち上がった。


 全身の筋肉が強張っていた。歩くたびに顔をしかめる。背中側で縛られた両手を下ろしまたぎ越した。縄をこじり、また眉を寄せ、首を振った。炭受け皿に残る熾はもう消えている。橋をかけるように渡された鍋。ナイフはない。暖炉に火があった。フラウは傍に跪き、手首にかけられた縄をかざした。チリチリと煙が立ち、炎が手の皮膚を炙っていく。


 フラウは声を殺しうめいた。泥を染み込ませてあるらしく、手縄は煙を立てるばかりだ。火がつく頃には両手も使えなくなるだろう。木の軋む音が壁の向こうから聞こえた。エルロに違いない。フラウは縄の切断を諦め、黒々とした火かき棒を取った。何度も温められ、また冷やされてきた、鋳鉄の棒だ。縛められた両手では満足に握ることもできない。


「……大丈夫ですの? こんなもので」


 フラウは自らに問うように呟き、首を振った。今あるものでできることをする。力の入らない足を慎重に扉の前まで運び、火かき棒を肩に担ぐようにして足音を待つ。コトリコトリと呑気に近づいてくる足音が止まり、扉が開いた。


「シッ!」


 と、鋭く息を吐きフラウは火かき棒を振り下ろした。先端の鉤爪で頭を狙う。エルロが扉から顔を出したとき、火かき棒は眼前まで迫っていた。血が飛沫く――はずだった。


「ん」


 エルロは眉一つ動かさずに左手をあげ火かき棒を受け止めた。


「危ない」


 呟き終える頃にはフラウの右足を手前に蹴り刈っていた。支えを失ったフラウの躰が仰向けに傾いだ。転ぶ――より早くエルロが接近、古びた日記を巻き込むように右腕をたたみ、フラウの胸元めがけ肘を振った。打音。フラウは背中から床に叩きつけられ、肺に残っていた息を吐きだした。早すぎて、強すぎて、また両手を縛られていたため受け身を取れなかったのだ。


 衝撃で横隔膜が痙攣し、フラウは呼吸ができなくなった。しかし、理性を超えて躰が息を求めて口を開く。吸えない。両腕が縮こまり視界が白めいていく。火かき棒をもぎ取られた。彼女の瞳が捉えたものは、自らを見下ろすカルガの少女だった。


「大丈夫?」


 エルロは茶色いポンチョを払い、右の太腿に留めた魔鋼の鉞を見せつけるように膝でフラウの胸と喉を押さえ込む。手にしていた日記を顔の前に突き出し、囁くように言った。


「ん。日記を持ってきたよ。証拠の一部は地下室にある。読む?」

「……ンッ、クァ、ハッ……!」


 フラウは双眸に涙をためながらも、息を求めながらも、足を振りまわし、躰を弾ませ、エルロの束縛から逃れようと試みた。自身の胸と喉を押さえつける少女はわずかに揺れるくらいで動きそうにない。けれど、


「おー」


 エルロが口を半開きに吐息をついた。


「すごいね。たぶん、ミレリアより力あるよ」


 フラウの抵抗は繰り返すにつれて弱々しくなり、やがて踵が床を掻きだし、止まった。


「ん?」


 と、エルロが胸と首を押さえ込む膝を緩めた。ふすぅ、とフラウの肺が膨らむ。痙攣が収まったのだろう。ケホコホと小さく咳き込むフラウに、エルロは言った。


「ちょっと待ってね」


 日記をフラウの頭の横に置き、太ももの鉞のベルトを外して抜くと、膝の代わりにフラウの胸元に置き、手をゆっくりと離していく。


「うっ、ふっぅぅぅぅぅ……!」


 魔鋼――カルガの言葉で鬼鋼と呼ばれる超硬超重の鉞がフラウの躰を押さえ込む。魔鋼を使った武具には呪いがかけられており、正当な所有者が死ぬか、継承の儀式を執り行わなければ解呪できない。資格のない者にとっては鉛より重く、所有者にとっては羽より軽いのである。


 呪いの重さにあえぐフラウをよそ目に、エルロは日記を拾ってテーブルに置き、火かき棒を暖炉の傍に立てかける。新たな薪を追加して、何を思うか天井を見上げ、髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜて、フラウの元に戻った。


「ん」


 とつとつと尋ねた。


「静かにできる?」

「……! ……!」


 フラウが浅い呼吸を繰り返しながら首を縦に振るのを見届け、エルロは尋ねた。


「日記、読む?」


 フラウが首肯したのを見届けて、エルロは鉞をどけてやった。

 暖炉で薪が爆ぜていた。

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