静かな人質

 朝、アウルが暖炉の火を熾し、炭受け皿に鍋を渡して昨晩の残り物を温めていると、壁際の薄汚れた毛布が蠢き、フラウが疲れた顔を見せた。


「おはよう。顔色が悪いな。眠れなかったのか?」


 フラウの顔色は青を通り越し土気色になっていて、目の下には深いクマがあった。髪は乱れ頬は心なしか張りを失い、人質らしくなっている。


「……この状況で眠れるとお思いですの?」フラウは掠れた声でいい、背中側で縛られた手を揉むように両肩を揺すった。「両手は縛られ、冷たい床に転がされ――外にはあの化け物」


 はは、とアウルは笑いながら木べらで鍋をかき混ぜる。木べらが鍋のフチと擦れて鳴った。


「それが普通の暮らしだよ。エルロはまだ寝てるし、朝露を掬いたいなら俺が付き添うけど?」

「結構ですわ。あんなのが傍にいると思うと――」


 そう言葉を切って、フラウは顔を背けた。


「なぜ、わたくしですの? わたくしが何かしまして? あなた、誰を相手にしてるか理解していますの? すぐにお父様がここを見つけますわ。そうしたら――」

「聞きたいのか脅したいのか、どっちかにしてくれよ」アウルは苦笑した。「先にフラウちゃんのお父様の話をしようか。グスタフさん。すぐにここを見つけるかも。たしかに。だから?」

 

 アウルに昏い眼差しを投げられ、フラウは小さく喉を鳴らした。


「分かってくれたか? そうなんだよ。だからなんだ? っていう。フラウちゃんの傭兵は五分ともたなかった。ああ、フラウちゃんは良い腕してるよ。傭兵になればすぐに売れっ子。だからなに? 皆殺しでいいなら一分もいらなかった」

「……『ちゃん』付けはやめていただけまして?」


 フラウの瞳はまだ気力を失っていないようだった。

 アウルの口角だけがあがる。


「最初の質問に答えようか。なんでフラウちゃ――君を狙ったか。娘だから。フラウが何かしたのか。いいや。何もしてない。強いていうならグスタフの娘でいらした」

「……アウル。あなたはわたくしのお父様の怖さを理解できていないようですわね」


 強がるフラウに、アウルは首を振った。鍋が温まった。火ばさみで熾をいくらか摘み暖炉に放る。シチューの匂いにつられ二階のエルロも起きたのだろう、天井がガサゴソと鳴った。

 アウルは手近な皿に一匙掬い、シチューの味を確かめた。大丈夫そうだ。


「ちゃんと調べたからグスタフさんの怖さは知ってる。たしかにおっかない。とんでもない変態で、ゴミ野郎で、人間のクズだ。君のお父様は妊婦の腹を掻っ捌いて遊んでたそうだ」


 ハンッ! とフラウが強く鼻を鳴らした。


「そんな根も葉もない噂! 強き者は妬まれるのが世の常ですわ。弱きものに成り代わり正義を遂行しているおつもりですの? 結構な御志おこころざしですこと」

「あー……いや、そういう御志は俺の担当じゃないんだな」


 トコトコと階段を降りる音が聞こえた。エルロのお目覚めだ。そのまま外に出ていった。顔を洗いに行ったのだろう。

 アウルはフラウの透き通る碧眼を見つめながら答えた。


「俺は金が欲しいだけだよ。まぁ殺された人らに同情くらいはするけどね。でもほら、復讐は自分でするべきだし。単に金を持ってて、恨まれてて、人質を取れそうな奴を狙ったってだけなんだ。ほら、恨まれていれば、身代金をとっても『やっぱりな』で終わりそうだろ?」


 フラウは言おうとした言葉を見失ったようだった。

 部屋の扉が開き、エルロが水桶を手に入ってきた。


「ん。おはよう、アウル。フラウ。何の話をしてたの?」

「おはよう、エルロ。フラウに聞かれたんだよ。『なんで私なのか?』って」


 ふーんと気のない様子で鼻を鳴らし、エルロは水桶をフラウの前に下ろした。


「運が悪かったんだと思うよ」


 あふ、とあくびして、エルロはしゃがみこんだ。


「お金持ちの家に生まれたのが悪かったんだよ。親も生まれる家も選ばなかったのが悪い。――顔洗う?」


 小首を傾げるエルロの邪気のない瞳を覗き、フラウは眉を寄せながら頷いた。エルロはフラウの背後に回り込み、彼女の手を縛る縄を解いた。

 フラウは縄の跡の残る手首をさすりながら、訝しげにアウルとエルロを見比べ、水桶を覗き込んだ。透き通る水面に戸惑う顔が薄っすらと映っていた。 

 アウルはシチューを皿によそい、テーブルに並べる。街で買い足した食材を含めてほぼ形がなくなるまで煮込みドロッとした赤褐色の汁と、乾いて固くなったパンが一つずつ。


「俺はグスタフさんとこに強請ゆすりに行ってくるわ。ついでに馬車の処分してくるから」

「ん。わかった。じゃあ私は……」


 エルロはちらとフラウを見ていった。


「おり?」

「うん。頼む。とりあえず昼と夜のメシは先に作っとくから適当に温めて食って」

「わたくしをなんだと思っていますの……?」


 普段はない声音に二人が顔を向けた。フラウが両肩を落とし、昨晩と同じシチューを死人のように見つめていた。

 アウルはエルロと顔を見合わせ、向き直った。


「エルロに迷惑かけるなよな。普通に戦っても勝てないし、勝ってもパナペペには勝てない」

「ん?」


 エルロは不愉快そうに目を吊り上げた。


「私が負けるって言った?」

「違う違う。万が一だよ。なんていうか、隙をついて逃げられたとか、そういうの」


 二人のやりとりに首を振り、フラウは自信満々にいった。


「わたくしがカルガの娘ごときに遅れを取るとお思いですの? だとしたら滑稽ですわ」

「ん」


 エルロはフラウを一瞥し、アウルに尋ねた。


「殴ってもいい?」

「ダメ。死んじゃうから。どうしても殴りたいなら腹だ。手加減してな?」アウルは時間をかけてフラウを見やった。「絶対に本気で殴るなよ? どうせ殺すなら一晩かけたい」


 心にもない脅しをかけ、アウルは食事を切り上げた。昼と夜の分を用意しなくては。納屋に置いてある燻製用の焚き木に火を灯し、最も古い肉から削いでいく。まずは昼食、遅くなった場合に備えて夕食、それから温めるのに必要な薪――はエルロが自分でやるだろう。


 アウルは舌で下唇を巻き込むようにして湿りをくれ、短剣を鞘に収めた。

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