素朴なお願い
「な、なんですの……?」
フラウが慄く。
「いったい、それ……何を……」
「たいしたもんじゃないよ」
淡々と言い、アウルは桶に突っ込まれていた木べらで内容物を掬う。薄いピンクと白色、茶色、ぐちゃりと濁る獣と腐れの臭いの塊。みちみちと這い出てくる蛆虫の群れ。
「革を鞣すのにこそぎ落とした獣の肉と脂だ。食うにもアレだし、肥料にできないかと思って取ってたんだけどさ。静かにできないならお仕置きに使おうかってさ」
「――は、はぁ!?」フラウは頬を引きつり気味に笑んだ。「そんなもの! わたくしに――」
「静かにしてくれ」
フラウが言い切るより早く、アウルは彼女の頬に腐肉と脂を塗りつけた。爆発的に広まる吐き気を催す腐臭。腐った血もいくらか混じっている。
「――ウァッ、グ、ゴォェ!」
フラウが臭気にえずいた。突き出した顔に、アウルはさらに塗りつけた。次は右の頬だ。そこで人が動いてなければ、蝿が喜々として舞い寄ってくるだろう。
「オォォォゥェェェエエエエ!! グォ、ゲ、や、やめ」
「だから、静かに、してくれ」
アウルはたっぷりと桶から掬い鼻の下に塗りつけた。薄っすら笑っている。だが淡々と、そういう作業であるかのように桶から掬い、喉を鳴らすフラウの顔に塗り重ねていく。
「静かにしよう。静かにしてくれるならやめられる。どうだ?」
「ぉぶっ、ぐっ!」
ぐいとフラウが首を突き出した、すかさずアウルは彼女の後ろ頭を掴み、桶に向ける。
「吐くんだったらこちらにどうぞ」
「オゴォロロロロロロロ!」
吐いた。吐き終わった。かと思うと、フラウは桶の中で蠢く虫に気づいて背中を丸めた。
「おぼぉぉぉ! ぐっ、ぶぐゎ、げぇごぼぼぼ……!」
吐く。吐いた。空っぽの胃を空にして、それでもまだ背中を膨らませて喉を開いた。アウルは木べらで嘔吐物と腐肉をかき混ぜ、掬い取る。
「さぁ返事の時間だ。静かにできるか?」
フラウは真っ青な顔をして、両の眼から滝のような涙を流しながら顎をあげた。一呼吸ごとに首をすぼめ、脇を締めるように力を入れて、全身を痙攣させている。
「わ、わだじ……ばだぐじは……」
鼻水と涎と胃液を垂らしながら罵倒しようというのか、息を吸い、
「ごぉえ!!」
と喉を引きつらせた。その大きく開いた口に、アウルは腐肉の乗る木べらを押し込んだ。
「――っぷ」
限界を越えた。吹き出す瞬間、アウルはフラウの後ろ頭を掴み顔を桶に向けさせる。とめどなく粘着質な水音が響いた。エルロがそっぽを向きふぅと息をついた。
アウルは下唇を巻き込むようにして舐め、掴んでいたフラウの顔をあげる。
「どうだ? 淑やかにする気になってきたか?」
フラウは躰を細かに震わせながら口を閉じ、口角を引きつるように下げた。ぶっ! と唾を飛ばした。しかし、アウルは予見していたかのように首を傾けて躱す。
「じゃあもう一口どーぞー」
意外と頑丈だなと思いつつ、アウルは木桶をかき混ぜてから掬った。
ひゅっ、とフラウの喉が恐怖に鳴った。
「やめ――いぐばっ」
ずぼりと匙を突っ込み、引き抜くと同時にアウルはフラウの口を手で塞いだ。えづく。えづく。ぶしっ、と吐瀉物が指の隙間から横に散った。しかしアウルは手を離さない。
潤んだ瞳を虚ろに揺らすフラウに、アウルは淡々と言った。
「そろそろ理解できたか? 俺達は、お前を、殺していないだけなんだ」
ぐん、ぐん、ぐん、とフラウが顎を縦に振った。涙を止めどなく溢れさせ、また嘔吐しようと動く躰。アウルは腕一本で押さえ込んだまま言った。
「静かにできるなら、こんなことはしない。俺だってしたくない。臭いし、汚いし、俺はこのあと水を汲んで、ここを掃除して、エルロに苦情を言われなくちゃいけない。分かる?」
涙を流してえずくばかりのフラウに、アウルは重ねて言いつけた。
「静かにしてくれ。それだけで、お互いにゆっくり過ごせる。いいか?」
言って、アウルが手を離した途端、フラウは舌を突き出すようにして自ら桶に顔を突っ込み嘔吐をはじめた。何度も、何度も繰り返した。
アウルは汚れた左手を振り、エルロに尋ねた。
「悪ぃ、水汲んできてくれない? これ桶を動かしたら悲劇だろ」
「ん」
エルロは小さく頷いた。
「でもそれ、もう二度としないで欲しい。とっても臭い」
「しないって、フラウちゃんが分かってくれれば」
言って、アウルは顔をあげようとするフラウの頭を押さえ込んだ。
嘔吐はつづいた。エルロが水を汲んできて、アウルがこらえろと命じて顔を拭き、水を含ませ口を何度かゆすがせてやった、そのあとも二度えづいた。
ようやく部屋が静寂を取り戻すと、アウルは床を綺麗に拭き直し、汚れた桶を外に出し、竈の火に香り高いマールの木片を焚べた。そして、細い葉巻を唇に挟み、安い煙を吹いた。
「分かってくれて嬉しいよ、フラウちゃん。これで落ち着いてメシが食える。フラウちゃんの舌には合わないかもしれないけど――っていうか、食欲が湧かないかもしれないけど、食べたいならちゃんと分けてやる。だから、ぎゃーぎゃーと喚かないでくれ。できるだろ?」
フラウは真っ青な顔に細かな汗を浮かせ、力なく頷いた。
「よし。――まぁ、フラウちゃんのお父様よりは生ぬるいさ。葉巻も吸うか? 安物だけど」
アウルが吸口を差し向けると、フラウは微かに頷いた。
「いいね。分かってきてくれたみたいで嬉しいよ。ほら――吸いな」
アウルが唇に葉巻を挟んでやると、フラウは深く吸い込み、コホコホと噎せながら煙を吐いた。二度、三度と息をつくのを見計らい、吸うか尋ねて、唇に挟ませた。
「……美味しくありませんわ……」
散々に吐いて喉が疲れたのだろう、フラウの声はカスカスに枯れていた。
「まぁ、そこは我慢してくれ。なんせほら、俺らは平民だからさ」
「……お食事を、いただけまして?」
「おお、調子でてきたな。もちろんいいけど――それはエルロにお願いしな」
言って、アウルは肩越しに振り向いた。
「ん?」
エルロはいつも通りに黙々と匙を掬っていた。
「何?」
「フラウちゃんがメシを食いたいんだってさ。手伝ってやってくれないか?」
「なんで私?」
「共同作業じゃん、こういうのは。頼むよ」
エルロは葉巻とシチューに沈む肉の塊の一つと引き換えに、フラウの給餌を引き受けた。
そうして、最初の夜が更けていった。
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