何かいる

 命に関わる何かと判明しているだけに気乗りはしない。が、馬車は帰してしまった。歩いて戻ればまた半日。復路は夜だ。森で獣を生け捕りにする手もないではないが面倒すぎる。


「やるか……」


 アウルは吐息とともに首を垂れた。


「けど俺、そいつ見えないんだけど」

「ん。そんなに時間はかからない……と思う。テーブルをよけて歩いてたから、近づいてきたらテーブルの周りをぐるぐる回ればいいんじゃ……ないかと思う」

「いや余計に不安になってきたわ。……まぁいいや。暗くなる前にとっととやっちまおう」


 やはり危険に疎くなっているのだろうか――とアウルはぼんやり考えながら家に戻った。さっそくエルロが右手の鉞を高々とあげ、さっさと行けとばかりに空いた手を払った。


「はいはいはい、行きますよ」


 意味があるかはともかく黒皮の短剣を握りブラブラと揺すりながらかまどのある部屋に近づく。くん、と服の裾をエルロが引いた。


「……ん。気をつけて。こっち見てる」

「全っ然わからないんですけど……?」

「来た」


 エルロが声を鋭くしアウルを引いた。後ずさるのに合わせるように、ギッ、と床が軋んだ。

 床がたわんだ様子はない。床鳴りは存在を教えてくれるが、重さを伝えてくれない。


「……大きさは?」

「うわ」

「なんだよ。やめろよ」

「ぶにゅってなって、入ってきた」

「ぶにゅって――」


 ギッ、と床が軋んだ。肩越しに振り向くと、エルロは呆れたように天井近くを見ていた。


「え。でか」


 裾を引かれて、アウルはされるがままにテーブルを回り込む。床鳴りが近づくたびに引かれて、裾を引く手が離れた。


「ん。とりあず上を見てくる」

「おいマジかよ置いてくな何か怖くなってきたぞ」

「ん。すぐ見つかると思う。テーブルを回って」


 言うなり、エルロはパタパタ駆け出し階段を昇っていった。ギッ、と床が軋んだ。アウルは我知らず息を飲んだ。足音を消してテーブルを回り込む。天井から音が聞こえた。エルロだ。


「……ォ」


 アウルは声を出そうとして喉が詰まっているのに気づいた。咳払い。


「おおい! エルロー!? まだかー!?」


 トッ、と足元で水音が鳴った。視線を下げると、床に積もった埃が水の一滴分だけ放射状に散っていた。エルロは何と言っていただろうか。うにょうにょの、ぬるぬるだったか? 


 ――そういえば、床鳴りは?


 恐る恐る顔を上げると、背筋を冷たいものが流れた。


「ひっ!?」


 思わず声を漏らすと同時に、顔が熱くなった。まさか悲鳴を上げるなんて。足音が階段を駆け下りてくる。


「アウル! おかしい! 二階だと弱くなる!」


 言って、エルロは玄関側から部屋を覗き込み、「うわ」と顔を強張らせた。


「うわってなんだ! うわって! まだ見つからねぇの!?」


 アウルは悲鳴をあげた恥ずかしさから苦情を言いつつ振り向く。

 エルロが音節を区切るようにして言った。


「アウル、ゆっくり、しゃがんで、こっちに」

「あ!? しゃがめ!? しゃがめってなんだよ!」

「ん……」


 エルロはとても言いにくそうに言った。


「テーブルの奥から覆いかぶさってる」

「覆いかぶさるってお前……」


 どっちから、どういうふうに。アウルは短剣を構えた。とりあえず、テーブル側に向けて。


「そっちじゃないよ」

「――どっち!」

「ん……たぶん、顔? っぽいのが、こっち側からアウルのこと見てる。ちょーちかい」

「ちょーちかいのかよ……」


 泣きたくなった。見えない相手は厄介だ。言われるままにしゃがむしかない――のか?

 アウルは目を瞑り、意を決してエルロの側に振り向く。せめて空気の揺れくらいあればと思ったが、それすらない。


「……場所は分かったのか?」

「ん」


 エルロが真剣な面持ちで首を振った。


「階段の方が強いけど、上じゃない」

「ってことは、地下か」


 地下室の話なんて聞いていないが、農家なら倉庫くらいはあるかもしれない。家の外周はエルロが回った。あれば気づく。階段のほうが強いというなら、


「――階段の下だ! 物置になってる!」


 なんだ、簡単じゃないか! とアウルは喜び勇んで歩きだし、


「アウル! しゃがんで!」


 エルロの助言を失念していた。そこに何かがあるらしい空間に首を突っ込んだとき、アウルはそれを感じた。押された。そう認識した。打撃ではなく、両手のひらをそっと胸に添え、思い切り突き放されたような感覚だ。だが耐えることなどできるはずもない圧力だった。


 ドン! とアウルの躰は秒以下で壁に衝突、強かに背中を打ちつけ背骨と裏側の肋骨がメシメシと軋んだ。アウルは膝から落ちて少量の血を吐いた。


 ――ヤッベェ。


 走る戦慄。左の腕がパン! と跳ね上げられた。いや、引かれたと言うべきか。理解できなかった。意志とは関係なく腕が上がったのだ。持ち上げられ、ぐわぁん、と大きく振り回されて、予見できない動きに腕が耐えられず耳障りな音を立て逆方向に折れ曲がった。そして。


「うっぉおおおおお!?」


 まるでボロ布のように投げ捨てられた。アウルの躰はほとんど真横に飛翔し、扉の脇の壁に頭を叩きつけられ、水平方向に回転しながらかまどのある部屋に飛び込んだ。埃を散らしながら床を滑ってテーブルの足にぶつかり、そこで止まった。


「――ぉ……ごっ……」


 何が起きた!? アウルは心中で叫んだ。何が起きた。何が起きた。何が起きた!

 エルロは鬼がいると言っていた。カルガの巫女が扱う力の源泉というか、命令を実行する存在。もしやエルロの力の犠牲者は皆おなじ体験をしていたのか。だとしたら、


「――こっわ」


 呟いた瞬間、今度はアウルの躰が垂直に上昇した。持ち上げられているのだ。無数の太い蔦のようなものが絡みついてくる感覚。ジーと旅していたとき、イカ人間とでもいういうべき奇妙な魔物に躰を締め付けられたときとよく似ていた。骨が軋み、また一本、あばらが逝った。


「アウル!」


 エルロが部屋を覗き込んで叫んだ。幸い鬼とやらの姿は目に見えないため、何をしようとしているのかすぐに分かった。手にした鉞をこちらに向け、鬼とやらを壊そうとしている。

 アウルは咄嗟に叫んだ。


「やめろもったいねぇ! 階段の下だ! 急げ! こいつ止めろ!」


 もったいない? アウルは自らの言葉に呆れた。エルロが一瞬の躊躇いも見せずに「分かった!」と駆け出していく。アウルの視線は扉の向こうの自分がぶつかった壁に向かった。骨がひしゃげる勢いでぶつかったのに傷一つない。


「おっほ……頑丈ぅ……いい家――ゴェッ」


 ボグン、と何処かの骨が外れた。絞り上げられたせいか口から血が飛沫いた。折れた骨が肺に刺さったか。いや、だったらもっと……もっと、なんだ?


 腹立たしいことにアウルの意識は鮮明だった。

 自分がどう壊されていくのか知覚できた。痛みも、苦しみも、すべてがそのまま。アウルの躰が空中で水平に寝かされていく。視界に入る薄汚れた天井。よく見ると、黒い染みが点々とついている。


「……おい……やめろよ……何する気だよ」


 分かっていた。ズバン! と床に叩きつけられ息が詰まった。咽る――より早く。


「――ぎゃっ」


 アウルの躰は猛烈な速度で上昇、天井に叩きつけられた。次に床。天井。床。天井。衝撃に家が振動している。まるで人形。持ち主は癇癪を起こした赤子だ。何度くり返されたか、アウルの躰がゆるゆると降下しはじめ、空中で静止した。


 ぽたり、ぽたり、と血が滴る音が聞こえた。

 アウルは、まだ目が見えるのが不思議だった。ぐっ、と頭が持ち上がり、顔を足元に向けさせられた。関節が三つほど増えたとみえ、太ももに瘤のような膨らみができていた。次はどうする? 何をする?


 ばづんっっっ! と、太ももに三つ横並びの穴が開き血を噴いた。が、噴いたそばから消えていく。おそらく鬼とやらが飲んでいるのだろう。


 だから、見えなくなるのだ。

 わずかに足側へ動かされ、また ばづんっっっ! と、今度は腹に穴が開いた。横並びに六つか、七つか。分からなかった。だが、分かりもした。


 ああ、肉たたきか。アウルは声なく呟く。硬そうな肉だから叩きましょうね、と。声が出ない。息が詰まったのか喉が潰れたのか判断できない。けれど頭は冷静だ。エルロはまだか?


 ぐじゅ、ぐじゅ、と二度ほど咀嚼され。また放り捨てられた。今度は扉を綺麗に抜けてテーブルに背中を打ちつけ転がるようにして床に落ちた。


 ギッ、と床が軋んだ。ギッ、と床が軋んだ。床が軋んだ。床が軋んだ。床が軋んだ。床が軋んだ。アウルの目の前にあったテーブルが、けたたましい擦過音を立てながら道を開けた。


 どうやら鬼さんは家そのものには優しいらしい。

 ぼんやりと考えていると、アウルの顔のすぐ横で床が軋んだ。覆いかぶさっているのであろうことは分かった。体重をかけはじめているのだろう。頭が、またゆっくりと持ち上がっていく。アウルは口を開いた。ダラダラと粘っこい血を吐きながら言った。


「おい。頭はやめろ」


 くぐもった声が宙空に溶け、何も見えなかった空間に、アウルを嬲る化け物が姿を現す。じりじりと布が焼け落ちていくように正常な空間が捲れると、見上げるほどの体躯があった。


 全身を脂ぎった黒い獣の毛に包まれた、三本足の魔物――いや、足は一本で腕は二本なのだろうか。アウルの顔の横に一本、足の間に一本を膝立ちするように立てている。体表のあらゆるところから生やした粘着質な太い触手をくねらせ、アウルの頭を後ろから支えていた。そして、今まさに彼の頭を食おうと狙う人の形に似た頭には、大きく開いた口しかない。


「……きっも」


 アウルは呟き、血とともに吹き出した。その外見もさることながら、ピクリとも動かないのがまた不気味だった。音が聞こえた。小さな足音が大慌てで駆け上がってくる。


「アウル!?」


 エルロだった。


「アウル! 平気!?」


 首を傾けようにもアウルは化け物に伸し掛かられて動けなかった。

 エルロは触手の束を避けるようにして彼の顔を覗き込んだ。


「アウル!? 生きてる!?」


 ひゅう、ひゅう、と半分喉から抜けたような息をしながらアウルは言った。


「俺の腰んとこ……アーズの薬精……」


 エルロは大慌てでアウルのひしゃげた腰鞄から薬瓶を出した。アウルは唇を尖らせ薬瓶の呑み口に吸いつく。女の腕の中ならともかく、化け物の触手に抱かれているとは――。


 苦笑するアウルの傷口からぶすぶすと音を立てて白い泡が立ち、やがて薬臭い煙と化す。その量たるや燻製でも作っているのかと言いたくなるほど無茶苦茶で、


「ん! ぶぇっへ!」


 と、エルロが咽て涙目になった。

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