演技?

 翌朝、まだ日も昇りきらないうちから、アウル達は馬車の人となった。

 二頭立てだが御者はなく役人が手綱を握っている。引き回す荷車も二人掛けに小さなトランクが一つ。最悪の事態を想定して簡単な野営道具を持参したが、それで目一杯だ。 


 半日で用意できる限界なのだと役人は言った。不満はない。朝もやが残る時間を選んだのは内密にと頼んだからで、買うにしろ買わないにしろ日があるうちに帰途につきたかった。


 夜に森に入る気持ちはアウルにもよく分かる。慣れていても嫌なものだ。風の音が獣の息遣いに聞こえ、暗闇に魔物の視線を見いだす。森は街より湿っぽく、土塊や草木の臭気が後を追われているような気にさせる。森に入るなら昼間の方がいくらかマシだ。――もちろん、森の種類にもよるが。


 馬車は早々に整備された道を外れ、振動と騒音を立てるようになった。太陽が照りだす頃には林道にさしかかり、やがて木々が深くなるにつれて道が悪くなっていく。


 昼の少し前、もはや完全に森に呑まれたと感じ始める頃に、道が曲がって明るくなった。代わりに、異様な気配に馬が足を止めようとした。目に見えない泥濘に自分からはまり込んでいくような感覚。手綱を緩めて促すと馬が嫌がり嘶いた。役人が鞭を取り、パン! と宙で鳴らしてようやく進み始めた。


「……慣れてるね」


 アウルが役人に声をかけると、彼は脂汗の浮いた顔で振り向いた。


「……ええ、まぁ、何度か来ていますからね」


 肌寒さは森のせいではないだろう。馬車がノロノロと開けた場所に出た。先の見通せない藪を正面にした二階――窓の数からして屋根裏付きの三階建てか、石造りの堅牢そうな家だ。正面には今は藪になっている田畑を望むポーチ。謎の重苦しさを除けば雰囲気は悪くない。


「ええと、わたくしどもが格安でお売りできる物件はここだけになります」


 いよいよ、馬車が止まった。


「……なんか、すごい状態よくないか?」


 家のすぐ側に屋根付き蓋付きの井戸があり、家畜用の水桶もある。さらに隣接する二つの小屋も、古びた建物の外観も含めて、想像よりずっと最近に修復されていた。


「ん」


 エルロが瞼をパチリと開けた。


「なんだか、変なのがいる」


 途端、役人が弾かれるように背筋を伸ばした。

 アウルは苦笑交じりに尋ねた。


「昨日も言ってた『いわく』か?」

「え、ええ……そうです。あの、どうされますか……? もしご購入されるのであれば――」

「いやいや、さすがに中を見てからじゃないとでしょ」

「ですか……」


 役人が今にも泣き出しそうで、アウルは思わず吹き出してしまった。

 一足先に荷車から飛び降り、エルロがポンチョの右前を開いて黒刃の鉞を抜いた。灰色の魔犬の毛皮を巻いてある柄頭近くではなく、手のひら一つ頭に近い側を握っている。


「……マジでなんかいるのか?」

「ん」


 エルロは小さく頷いた。


「……外じゃない。たぶん、家の中にいるんだと思う」

「へぇ。それじゃ、ちょっと拝みに行こうか。なぁ?」


 アウルが呼びかけると、役人は両目を固く瞑って首を縦に揺すった。腰から、六柱の神のうち豊穣と商売を司るカマトを奉る麦と乳の一滴を示す腕飾りを引き出し、祈りを捧げた。

 アウルは役人の怯えように笑った。


「化け物退治だろ? なら戦の神か狩猟神じゃないか?」

「お守りいただけるよう、祈っているだけです。わ、わたしは、何度も立ち入っていますし」

「ん。みたいだね」


 エルロの当然とでも言いたげな言葉に、役人は野生の獣もかおまけの速さで振り向いた。


「わかるんですか」

「ん。匂いを覚えてるんだと思う」


 役人は慌てて服の臭いを嗅ぎだした。アウルが背中を叩くと悲鳴をあげた。


「大丈夫だよ。約束通り、なんかあってもちゃんと守ってやるから」

「ん。どうする? 私が先に入る?」

「どうかな……俺が先にしようか」


 上手いこと脅すものだと思いつつ、アウルは失礼しますと胸裏で呟き扉を押した。ぎぃぃぃぃぃ……と、木戸が軋みながら開いた。

 家全体が息をするように風を吸い、埃が舞った。

 アウルは軽く咳払いを入れ、家に入った。正面の廊下を突き当ると踊り場つきの階段があった。階段下は物置だろう。薄暗いが、左手側に扉が一枚。くぐると、また埃が舞った。使う気なら念入りに掃除をしたほうが良さそうだ。しかし、それよりも。


「家具がそのまんまになってるけど?」


 肩越しに訊ねると、役人は口元を手で覆って言った。


「前か……その前の住人……もっと前だったかもしれません」

「……そんな頻繁に入れ替わるか? 普通」


 言って、アウルは足早に外側の壁窓に寄り、雨戸を開いた。さっと光が入り部屋の全容が見渡せるようになった。薄壁を挟んで奥に広間が一つ。壁際の中央に暖炉のような大型のかまどがあり、煙突が二階を抜けている。調理器具こそないが壁棚と薪置きは新しい。


「さすが騎士様の家だな。寝室は二階かね。――てか、なんもいなくないか?」


 振り向くと、エルロが広間の隅をじっと見つめ、役人がその様に震えていた。釣られてアウルも壁の隅に目をやる。だが、何の気配も感じられない。


「あー……エルロ? いるのか? 本当に?」

「ん」


 エルロはこくんと頷いた。


「黒くて毛むくじゃらの、大っきいのがいる。ちょっと臭い」


 ビクっと役人が躰を硬直させた。


「ご、ご冗談なら、およし、いただけると……」

「ん」


 エルロは首を左右に振った。


「ほんとにいる。なんか、うねうねしたのが……いち、に、さん……いっぱい生えてて、ちょっと気持ち悪い」


 役人は真っ青にした顔面に滝のような汗を垂らしていた。今にも卒倒しそうだ。

 アウルは唇を歪め、より強く重圧をかけるべく役人に歩み寄った。


「本当に何かがいるっていうなら、もうちょいお安くなったりしないかな?」

「か、か、か、買われる、ん、です、か?」

「そうだね。安くなるならね」


 役人は大きく喉を鳴らし、エルロを見やった。

 じっと部屋の隅を見つめていた彼女は、急に、動き出した何かを追うように首を巡らせ始めた。視線の先に何かがいるならば、それは役人とアウル達に近寄りつつある。

 ギッ、と床が軋んだ。ギッ、と床が軋んだ。ギッ、と床が軋んだ。

 何かが、着実に近寄ってきているようだった。


「ん」


 エルロが言った。


「どいたほうがいいよ。狙ってる」

「ああああああの! ここから先の話は外でやりませんか!?」


 役人の悲鳴めいた声に満足し、アウルは気持ちよく頷いた。

 そして。

 外の空気を肺いっぱいに堪能する役人に、アウルは尋ねる。


「それじゃ、そろそろ事情を教えてもらおうか?」

「……はい。分かりました……ここだけの話にしていただけますか……?」

「もちろん。お互い様だよ」

「……元はフォルジェリ家の土地で、その前は、さる引退騎士が暮らしていましてね……?」


 役人は口にするのも嫌そうに、ハンカチで何度も額の汗を拭いながら語り始めた。

 もう三十年以上も昔から今につながる話だ。

 この地の権利者は、かつて名を馳せた騎士だったという。


 騎士は野党や獣、魔物との小競り合いをはじめとしてエルフと共闘しつつ各地で転戦、遠征中に妻が子供を産んで死んだと知った。家と土地は、そのころ騎士が仕えていた先代のフォルジェリ家が長年の感謝を込めて売り渡したのだ。


 生まれたばかりの子供を育てるために、また共闘していたとはいえエルフが領域を脅かさないか見張るため、そして監視役として給料を払いつづけるための土地だった。


 役人は落ち着きを取り戻したのか、薪割り台にしていたらしい切り株に腰を下ろした。


「彼の息子はよく働いていたそうです。大きくなると街とここを往復して、取れすぎた農作物を卸したり、足りないものを補充したり。でも街に通いすぎたんでしょうね。偉大な父に憧れて勝手に兵士になろうとした。親子は喧嘩別れになったとか」

「よくある話といえばよくある話だな」


 アウルは藪に視線を逃した。遠い昔の話が自分に重なる。理由は違うが、無駄に自分に期待をして集落を出て――何をやっているのか。


 エルロは。


 なにやら藪の近くで鉞を高くあげ、ゆっくり、ゆっくり振っていた。

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