子どもの喧嘩
男は後ろの二人に振り向いた。
「おい、知ってるか? カルガ族のガキはみんな変な名前なんだ」
男はエルロに向き直り得意げに言った。
「お前はどうだ? まだガキだろ。なんて名前なんだ?」
「ん」
エルロは幼いながらも整った顔を糸一筋ほども歪めることなく答えた。
「エルロだよ。カルガの言葉だと――俗語? で、チンコって意味」
一拍の間ののち、男達が爆笑した。涙を流さんばかりに笑い、チンコだチンコだってよと互いに言い合い、また笑い、さらに詰めるように尋ねた。
「チンコ!? おまえチンコかよ! 何だお前、ついてるのか!?」
ゲラゲラと笑う男達に、アウルの瞳の輝きが失せていく。飽き飽きしていた。彼らにとっては面白いのかもしれないが、アウルやエルロにとっては何回も繰り返されたやりとりだ。
「ん」
と、癖なのだろう、いつだって変わらず発するエルロの一音。黙りこくるアウルと異なり、彼女は何度くりかえしたか分からないやりとりをした。
「カルガは、子どもが鬼に狙われないように、変な名前をつける風習があるんだよ。男の子には女の子の変な名前、女の子には男の子の変な名前をつけるんだ」
「それでチンコかよ!」
男は目尻に溜まった涙を拭いつつ、エルロのポンチョに手を伸ばした。
「おら、見せてみろ。どんなチンコしてるんだ?」
その瞬間、エルロは右手でポンチョを払い、足に結わえた漆黒の鉞を見せた。エルロの呪術を発動させるための、魔法使いがあつかう杖のようなものだ。
王国の言葉で言えば魔鋼、カルガの言葉を訳せば鬼鋼と呼ばれる、精錬の仕方どころか加工方法すら分からない超硬、超重量の鋼一枚から削り出された禍々しい片手斧である。
「おっと?」
男は上唇を湿らせながら躰を起こし、腰に差したナイフの柄に手を伸ばした。触れるか触れないか、ギリギリのところだった。
「やろうってのか? この俺と」
アウルはエルロを制するように肩をごく軽く小突く。
「おい。先に抜いたらこっちがやいやい言われるだろ?」
「ん。分かってる」
口ではそう言うが、紫電の眼光は男の一挙手一投足を掴もうとしていた。
ヒリつく気配――と言うべきか。アウルにとっては退屈で、漁師にとっては鉄火場にいるに等しい時間だった。男の手がナイフに寄り、後ろの男二人も顔を強張らせていく。
波止場に波がぶつかり、また砕けた。
殺しちまうか? とアウルは自らに問うた。
サクっと喉を切り裂き後ろの海に放り込む。残った二人は反応できない。まず左の男の腹を抉って海に投げ、次に右の男の――不毛だ。不毛に過ぎる。
街の自警団なり、議会とやらの貴族や商人が飼っているであろう私兵なり、ぞろぞろと面倒な連中が顔を出すに決まっている。ジーが呼び出されてややこしい話がはじまり、カークがブチ切れミレリアが教会に泣きつき厳しい爺様が出てくる。
アウルとエルロは、ほとんど同時に互いを見合い、頷きあった。
「……なぁ、こんなとこで殺し合うのもダルいし、俺の故郷のやり方で決めないか?」
アウルが言った。
「順番だけ先に決めてさ、五回ずつ互いに肩を殴り合うんだ。負けを認めたらそこで終わり。勝ち負けが決まったらそこで終わり。いがみあうのは終わりだよ。どうだ?」
「……あ?」
男は笑みを深めた。
「なんだそれ。俺に勝てるってのか!?」
殺し合いにならずにすんで腹の底では安堵したのだろう、男の声が急に大きくなった。
「いいじゃねえか! やってやるよ兄ちゃん! 一発で泣かせてやる!」
「――いや違うって」
アウルは苦笑し、親指でエルロを示した。
「やるのはこっち。俺はそういう野蛮なの、どうも肌に合わないんだよ」
「ん」
と返事をすると、いよいよエルロはポンチョをマントのように背中側へ払った。
「絶対に負けない。一発で終わらせる」
いつからいたのか、波止場の一角にたまる海鳥がみゃあみゃあと猫のように鳴きだした。
爆笑。漁師達は顔を見合わせ、またゲラゲラと笑ってから向き直った。
「お前が!? おい、チンコ! お前がやるのか!? 俺と!? いいぜ! やってやる! おら! 好きなだけ殴りな!」
自信満々に右肩を張ってみせる男に、アウルは言った。
「いや違うって。おじさん、そっちが利き手だろ? だったら逆。メシも食えなくなったらこっちが気まずいからさ。だから左肩」
「ハッ!」
男は威勢よく鼻を鳴らした。
「こんなガキの一発でどうなるってんだよ!」
「ダメだって。ルールだから。利き手じゃない方の肩。それぐらいは守ってくれよ」
「ああ!? しつけぇなぁ!」
男は今にもアウルに掴みがからんばかりだったが、彼の昏い目に口を閉ざした。その目は男を映してはいるものの、人として見ていなかったのだ。
深い井戸の底を覗き込むというよりも、見れば飲み込まれていくような感覚。
男の額にじわりと汗が滲み、やむを得ず躰を起こし、首の筋肉に全身全霊を込めた令を飛ばして視線を外す。そうして、可能な限りアウルの視線から逃げながら、男はエルロに言った。
「……持ち主がそう言うんじゃあ、しょうがねぇ……ルールならな……」
男は左肩の袖をまくりあげた。筋肉で大きく盛り上がった左肩をエルロに向け、彼女の背丈にあわせて腰を深く落とした。
「エルロが先攻でいいってことか?」
「あ、当たり前だろうが! おら! さっさとこいよ! カルガのチンコ野郎!!」
「よっし。エルロ、殺すなよ?」
アウルの発言に男が息を呑んだ。
「ん!」
言うと同時にエルロは左足を大きく前に出して腰を捻転、弓を引くように右腕を絞った。重心が超重の鉞を巻く右足にかかり、無形の圧力を発する。はやしたてるつもりだっただろう背後の二人が後退った。まったく正常な、人間の本能が起こした反応だ。
「気張りな、おっちゃん」
アウルが呟くと、男は歯を剥き出すように噛み締め、左肩に力を込めた。理性と理解を超えた何かがくると頭より先に躰が理解したのだ。
「……んぅ!」
エルロの口から吐息が漏れ、右の靴底の下で石畳が軋んだ。目にもとまらぬ打突。小さな握り拳が残像すら置き去りにして男の左肩に突き刺さった。
ボグン! と骨が爆ぜる音がはっきり聞こえた。隆起した筋肉が波打ったのは、その直後だった。打撃に抗しようと腰が引け、背骨が歪む。
しかし、エルロの打突を受け止めるには、全ての動作が紙の盾に等しい。
男の右腕が力なく垂れ下がり、顔が青ざめていく。迸る絶叫に、埠頭の鳥が翼を広げた。
――考えるまでもない。当然の結果だ。
幼くともエルロは勇者の一角。加入直後こそアウルはおろかミレリアにすらいなされる始末だったが、幼いがゆえに一月たらずでパーティの誰と比べても遜色ない腕になっていた。
そもそも、魔法使いに近い役割を担っていたとしても、エルロのあつかう呪具は成人の男ですら扱いに困る超重の鉞である。呪術により本人には羽より軽く振るえても重さは不変。その才覚がカルガ族の集落という王国の見聞も及ばぬ世界にあった――ただそれだけだ。
ドッ、と男が膝をついた。
耐え難い痛みのせいか涎が糸を引いていた。腕が無惨にひしゃげ青黒く染まり膨れ上がっていく。背後の二人が口を大きく開き、噛み締め、背中を見せた。
「お前らの顔、覚えたぞ」
アウルの低い声に、今にも逃げ出そうとしていた漁師二人が背筋から震えた。ギリギリと軋むように振り返る血の気の失せた顔に、アウルは薄く笑って言った。
「大丈夫だよ。殺すんなら、もうやってる。俺達はちょっと話を聞きたいだけだから。怪我したんなら、手当くらいはしてやるし」
左肩を押さえる漁師が、涙の滲む目でアウルを見上げた。
「う、うでが、おれのうで、が……どうな、って……」
「泣くなよ。折れただけって」
アウルの苦笑に、エルロが小さな胸を張ってみせた。
「ん。次、からかったら、お前達の頭を殴る」
漁師達が戦慄した。
その顔がツボに入って、アウルは笑いが止まらなくなった。
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