第四十四話 赦しと愛

暗闇を走る。

左右に、これまで起こってきたことが、走馬灯のように流れていく。

アロイス様との出会い、シェラン様との婚約、学園での暮らし……

自分でももう覚えていない、小さな子どもだった頃の様子に

赤ん坊だった私を抱き上げる父と、微笑む母……


闇は、もっと奥まで続いている。

私は聖女だった前世の自分が生まれたところまで、脇目も振らずに必死に走った。




***




ユリエル・サザークの人生は、教会と共にあった。

赤ん坊の頃、教会に捨てられ、教会で下働きをしながら育ち、そのままシスターになるはずだった。


十五歳を前にしたある日、国の西側の井戸が一斉に枯れた。

その際、新たな水脈を見つけ出したとして、聖女として祭り上げられることになったのだ。


数年前から、他人の精神に入り込むことができるようになったのだが、人には黙っていた。

捨て子が、と余計に気味悪がられる。そう思ったのだ。


ある時、たまたま行き倒れた魔術師を看病した時に、その老人の記憶にするっと手が届き、水源を辿る術を知った。

それも、秘密にしておくつもりでいたが……

井戸が枯れた時、一滴の水にも困る人々の姿に、つい、言葉を漏らしてしまったのだ。


地に水をもたらす者。大地と豊穣の女神、マーモアの加護を受けた聖女に違いない。


周囲はそう、自分をもてはやす。私はいつの間にか、首都にある正教会に招かれていた。

自分に何らかの力があるのは分かる。しかし、女神マーモアの聖女などではない。

分かってはいたけれど、自分を頼って教会を訪れる人々を放ってはおけず、そのまま聖女として壇上に立つ日々……


ある日、護衛騎士の人事交代があり、真面目そうな青年が私に仕えることになった。

私より一つ二つ年下だろうか。真面目そうな好青年である。


しばらくは何事もなく、過ぎていったが、いつしか一緒にいるうちに、彼からの視線が熱く感じられるようになる。

私としては、身近な存在ではあるが、特に話をするわけでもない。ただ、思いが波打ち際のように、繰り返しこちらに届いてくる。自分としては同じ教会を守る者同志としての感情しかなく、どこか面映ゆいものがあった。


ある日、夢を見た。遠くから、声だけが聞こえる夢だ。


「娘よ。そなたは私に支えるべき者ではない。もうじき、私に仕える者が現れる。その際には、潔く身を引くように」


マーモア様だ。そう思った。

この生活は、遠くないうちに失われる。その後、私はどうなるのだろう……


そして、その日はあっさり、やってきた。

いつも、護衛してくれていた彼が、初めて声をかけてきた。

その目が悲しそうで、つい、心に立ち入り、事情を知る。


あなたが苦しむことじゃない。仕方のないことだ。

そう思いながら、彼の差し出す魔封じの枷を、敢えてそのまま受け入れた。




数年後。

辺境の教会で、私は毎日、人の話を聞いていた。

もう相槌を打ったり、聞き返したりはできないけれど。

視力までは奪われなくてよかった。そこまでいくと、一人で生活するのが大変になってしまうから。


思えば、聖女だったころと、やることは変わっていない。

皆、辛さを吐き出して去っていく。

人に話を聞いてもらうだけで、心は安らかさを増すのだ。


だけど、一人、わざわざ教会に来てまで、懺悔をせずに帰った者がいた。

相手の様子を感じ取って、胸騒ぎが収まらない。


『彼』なのではないか。

私に魔封じの枷を掛けた、護衛騎士の。なぜ辺境に来ているのだろうか。首都の護衛騎士なら、花形職業のはずだ。

彼が苦しむ必要などない。もともと、神からそのように知らされていたのだから。

むしろ、私のせいで罪悪感を抱えてしまったのなら、申し訳ない。


もし、あれが彼なら、何もかも忘れて、楽になってほしい。




***




「苦しまないで」


鉄格子の向こうにいるアロイス様に向かって、私の口から出た言葉は、それだった。

いつもの私のソプラノの声ではない、低めの、別人の声だ。

これが聖女、ユリエル・サザークの声……


「私が聖女でなくなるのは、マーモア様から知らされていたわ。

別の聖女が誕生することも。

それで、あなたが苦しむ方がよほど辛い。

あなたはよく働いてくれたわ。頑張っていた。上の者に逆らえないのは私も同じ。

もう苦しまなくていいの。楽になってほしい」


「そうか……私は許されたのだな」


彼の顔から苦しみが消える。


「許すも何も、私はあなたを恨んだりはしてないのに」


「そうか……」


どんどん安らかに変わっていく彼の表情。


「これで、もう思い残すことは……」




…………え? ちょっと、待って……?

何だか、おかしい。

この流れ……これでは彼は、このまま天に還ってしまうのでは?




「ま、待ったーーーーーー!!」


私は、ありったけの力を込めて、叫んだ。本来の、私の地声だ。


「さっきのは、聖女ユリエル・サザークの偽りのない気持ちです。

だけど! 私、ユリエル・ローデントの気持ちではありません」


「……」


「どこにも行かないでください。

今生で、いかなる時にも、死を選んだりしないでください」


彼は困った顔になった。でも、続ける。


「私は、あなたが好きなんです!

大好きなんです!

愛してるんです!

失いたくないんです!


……ここまで言っても、分かりませんか?

あなたに必要なのは、聖女なのかもしれない。

私は彼女じゃない。

だけど、私には、あなたが必要なんです!」


一気に捲し立てて、息が切れた。鉄格子を握ったまま、俯く。

足元に、涙の雫がたくさん落ちて、シミを作っている。


「だから、私は……」


もう一度、顔を上げて、息を飲んだ。

すぐ目の前に、アロイス様の顔があったからだ。

彼は立ち上がって、牢の端まで来ていた。


鉄格子の隙間から両手を差し出した彼が、そのまま私の背中から腕を回す。

両の眼を潤ませた、彼の顔がますます近付いて、私は目を閉じた。

唇に、彼の体温を感じる。


二人の間を隔てていた、硬い鉄格子が、跡形もなく消えていく。


「すまなかった……」


両腕で抱き締めたまま、彼は私の肩に顎を乗せた。吐息が耳に当たる。


「私も……あなたを、愛している。

ユリエル・ローデント」


ずっと、待ち望んでいた言葉だった。

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