第三十ハ話 アロイスの手記

アロイス様が来なかった日の午後。

初めは何か用事が入ったのかと思い、待っていたけれど、いつまで待っても連絡すら入らない。


「ユリエル様、私、やっぱり屋敷に行って、様子を見てきます」


パールが外套を羽織り、駆け出していった。


彼が、こんなふうに約束を違えたことなど、初めてだ。普段はもしここに来れなくなっても、蝶が来て知らせてくれていた。

なんだか、胸騒ぎがする。

このコテージから、アロイス様の私邸まで、だいたい徒歩十分。森から出ることを禁じられてさえいなければ、自ら屋敷へ足を運びたかった。焦れながら、パールの帰宅を待つ。


一時間以上経って、ようやく誰かが戻ってきた気配がした。


「ユリエル様……」


扉を開けたパールの顔は、蒼白で、目に涙が浮かんでいる。


「どうしたの、パール」


「こ、これを……アロイス様の作業机に置かれていたものです」


小さな手に握られていたのは、一冊の手帳だった。私は受け取ると、その場でページをめくった。

最初の日付は、四カ月ほど前。私がコテージで暮らし始めた頃だ。

あの頃から、彼はエストリールの死火山に通い、調査を続けていたらしい。ゾンネ様が槍を打ち込んだ、あの場所だ。


手帳に書かれているのは、ほとんどが計測された何かの数値と、呪文、術式の覚書などだった。

ただ、後半のところどころに、走り書きのようなメモがある。



『座標確認終了。二つの呪いの星が放たれたのは、どちらもこの地点からと確認。マーモアの拠点の可能性。報告書提出済』


『死火山に異変あり。槍による亀裂が、地下深くから塞がってきた。報告書提出済』


『地表の亀裂も、ほぼ塞がる。槍の攻撃を受ける前の状態を復元。報告書提出済』


『死火山の深層に、魔力の蓄積を検出。高レベルの呪力を検出。第三の呪いの星の可能性。報告書提出』


『魔力、呪力の塊は球ではなく楕円形。どこかに照準を定めている模様。要計算』


『ゾンネ神とエルデ神の最近の動向を調査。照準外』


『星の照準、王都、西の森』



手帳を持つ手が震えた。

次に『呪いの星』が飛んでくるのは、ここだ。

狙われているのは、おそらくノエル……神の血を引く、ノエルだ。


その時、窓を白い影が叩いた。窓を開けると、いつもの蝶……シュメタリンが入ってくる。

その羽根は、瘴気に当てられたように、ボロボロになっていた。


蝶がパールの手に乗ると、アロイス様の声が聞こえてきた。


「パール、今からマーモアと接触を図る。

おそらく戻れない。

他の精霊と共に彼女を守れ」


パールが眉を八の字に歪める。


「このメッセージは、もう二、三時間は前のものです……」


地底の魔女マーモアと接触……!?

そんな、いくら彼でも勝てるような相手ではない。

しかも、逆流星を放てるほどに力が復活した魔女に会うなんて……


ああ、あれだ……セプタ経典の最後のページ。

『地底の女神に相見える法』

彼は、あれを使ったんだ。




彼を助けたい。でも、呪いの星が飛んでくるならノエルも守らなければ。

だけど、身重の私に、何ができる?


……そうだ!

人間にどうにもできないことは、神様に相談するしかない。


「エルデさんのところまで、行ける?」


お腹に向かって話しかけると、ノエルが、ぐるっと一回転しながら答えた。


「行ける……行けるよ!」


「私も連れて行ってください!」


パールが私にしがみついた。

周囲の色がマーブル状に組み合わさり、世界の裂け目が現れる。

私達は迷わず、そこに飛び込んだ。




***




数秒の混沌の世界を超え、私とパールが降り立ったのは、既視感のある、古びたアパートメントの一室だった。


「……ああ! 驚いたわ。ユリエルちゃん、今日はあなたと……花の女の子で来たのね?」


ベッドに横たわるエルデさんが、目を瞬かせ、声を掛けてきた。しかし、上半身を起こそうとして、途中で止める。

今もあまり体調が良くなさそうだ。


「お邪魔します、大事な相談があって……」


私は手短に状況を説明した。しかし聞きながら、彼女の表情がだんだん沈んでいく。


「ごめんなさい。今の私では、何かしたくても、どうしようもないわ」


ああ、エルデさんの呪いさえ解ければ……


ふと、セプタ経典の『星の呪い』に関する記述を思い出した。


『呪いの鍵を外さぬ限り、それは永遠に持続する』


呪いの鍵は、どこにあるんだろう。

……身体を縛る縄は、身体に直接触れているのが普通だ。

エルデさんの回復を阻む呪いは、彼女の内側で、力の源を直接縛っているのではないのだろうか。

それを外すことができたら、力を取り戻せる?


もしかしたら、私が得た闇の力で、それが叶うのでは……

それに今の私は、ノエルの力を借りることができる。

呪いが多少強固でも、壊せるかもしれない。


でも、相手は神様だ。神様の精神に踏み込むなんて、許されるのだろうか。

もし失敗して、何かよくない影響があったら……


だけど、何もしなければ、全てはこのまま終わってしまう。

最後まで、できることをしたい。それが、ただの足掻きで終わったとしても。


「本当に、ごめんなさいね……」


無言になった私に、エルデさんが申し訳なさそうに声を掛ける。

私は拳を握りしめ、すかさず彼女に向き直り、言った。


「お願いします、私に、あなたの心の深層まで踏み込む許可をお与えください」


「え……?」


エルデさんは、訳がわからないと言った顔で、私を見つめ返した。


「私、闇の魔法が使えるようになったんです。

あなたの中にある、呪いの鍵を探しに行かせてください」


狭い部屋を、沈黙が支配する。




「…………分かったわ。どうせこのままじゃ、治りそうにないしね」


エルデさんは、起こしかけていた上半身を、再びベッドに横たえた。


「では、目を閉じて、息を整えてください。そのまま眠ってしまっても構いません」


私は彼女の傍に座り、細く滑らかな手を、自分の両手で包み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る