第三十七話 最後の呪文
「ユリエル様、お昼ごはんですよ~!
お仕事もいいけど、あんまり根を詰めたら身体に障りますよ?
今日のメニューは、ローストターキーのサンドイッチと、コールスローです」
「ウフフ、分かったわ、パール。すぐに行くわ」
すっかり元気になったパールが、駆け足でキッチンに戻っていく。
あれから二ヶ月ほど経ち、私はひと目で妊婦とわかるようになった。両親がこの姿を見たら、きっと驚くだろうなと思う。
つわりもとうに落ち着いて、食欲も旺盛だ。ちょっとだけ顔が丸くなったような気もする。
お腹の中のノエルが、お腹を蹴ったり、中でグルングルン回転したりするのが分かる。
たまに、お腹がブルブル震えるように振動して、ビックリしたり……
とても元気で、やはり男の子なのだな、と実感する。
この子の父親は今も判らず仕舞いだけれど、そんなことはどうでもよくなってきた。
あと四カ月もすれば、私は母になるのだ。元気に生まれてきて欲しい。
ただ、心配もある。
私はこの国ではもう死んだことになっているから、この森を出られないし、アロイス様以外の人にも会えない。
だけど、この子には将来がある。ノエルが普通に学校に通ったり、友達を作ったり、将来は仕事に就いたり……
そういう環境をどうやって作っていったらいいのだろう。
それとも、この子も神様のような存在になって、いつか離れていくのだろうか……?
悩みは尽きない。
それに……アロイス様のこともある。
あの人への気持ちは、今も消えない。オイルの切れないランプが、いつまでも灯っているようだ。
そっとしておけば、静かに心の中を照らしているけれど、うっかり倒してしまったら、一気に燃え上がり、全てを焼き尽くしてしまうような、危うさがある。それではいけない。
いずれ、あの人が誰かを選ぶ日が来たら、応援しよう。そっと身を引こう。そして、いつか恩を返そう。
そんな決意だけは、している。
あのあと、セプタ教の経典の翻訳は、ほとんど完成した。もう残りは数ページ、今日中に終わるだろう。
経典の禁呪の部分だけは結局、訳さなかった。本の呪いが解かれていても、危険な呪文を、すぐに誰かが使える状態にしておくのはよくないからと、彼と私の二人で決めた。
できあがった翻訳文と経典は、アロイス様の私邸で、厳重に保管される予定だ。
……さて、そろそろ食堂へ行こう。パールが待っている。
***
食事を終え、翻訳の仕事に戻った。
最後の章は、この大陸の成り立ちについて書かれていた。四柱の神々が、大陸の四隅を支えている話。
一人でも欠けたら、大陸の全てを支えることはできない。
……八百年前、大陸が半分沈んだというのは、そういうことなのだろうか。
なるべくニュアンスを残すように気をつけながら、訳していく。
そして、いよいよ最後のページに辿り着いた。
丁寧に紙を手で送る。そして、最初に目に入った、冒頭の一文に驚愕した。
『地底の女神に
これも……絶対に訳してはいけない、そういう類の術だ。間違いない。
しかし、目に映る文字、発音は、解る。
僅か二十文字にも満たない、短い呪文。
その中に、二回、入っている文字列がある。
『ユリエル』
動悸が早くなった。
……そういえば、外国の方と話す時、私の名はエストリール風だと、よく言われた。
確かにグリスローダでは珍しい名前ではある。
お母様が『名前が頭の中に降りてきた』と言って名付けたと、お父様にも聞かされたことがある。
ううん、きっと、偶然。そう、たまたま同じなだけ……
私はページを閉じた。これ以上、翻訳する場所はない。瞼を伏せて、目の間の鼻梁をつまむ。
だけど、さほど長くない、自分の名前が含まれたスペルは、私の記憶にこびり付き、離れそうになかった。
***
翌朝、アロイス様がコテージを訪れた。経典の呪いの一件以来、彼はほとんど毎日、ここに顔を出すようになっている。
「おはよう、御令嬢。あれから翻訳の方は進んだかな?」
「ええ、危険だと思われる部分以外、全て終わりましたわ」
仕事部屋から、経典と原稿用紙を持って来ようとすると、彼に止められる。
「重い物は私が持とう」
「もう安定期に入りましたから」
「それでもだ」
それ以上続けると押し問答になってしまうので、彼の言葉に甘えることにした。
リビングのテーブルで、アロイス様が、経典と原稿用紙を読み比べる。
「私も古エストリール語には自信があるが、かなり良い出来だと思う。ありがとう」
笑顔で礼を述べる彼を見て、私も嬉しくなった。
「ただ、最後のページにも、禁呪と同じくらい危険な感じのする呪文があって……
その……『ユリエル』という言葉が、二箇所出てくるのですが……偶然ですよね?」
「ああ、これか…………おそらく、偶然、だろう」
ページから目を離さず、少々の沈黙の後、彼は答えた。
帰宅するアロイス様を、パールと二人、玄関先まで見送りに出た。
「協力に感謝する。次は明後日の朝、様子を見に来るつもりだ」
「ええ、お元気で」
「また来て下さいね!」
転移して消えていく彼の姿を見ながら、次は明後日と心に刻む。
この四十八時間が、待ち遠しくてたまらない。
しかし、二日後、彼がここを訪れることはなかった。
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