第十ハ話 白き闇

「獣は……」


女性は、息も絶え絶えに聞いてきた。


「銀狼なら、どこかに行った。戻って来なさそうだったから、安心していい」


アロイス様が答える。


彼女に怪我はなさそうだが、かなり逃げ回ったのだろう。ひどく体力を消耗しているように見えた。私は駆け足で荷台に積んであった革袋の水筒を取りに行き、彼女に手渡した。申し訳なさそうに微笑み、力なく受け取る彼女の腕は、とにかく細い。歳の頃は二十二、三といったところだろうか。なぜ男装しているのかわからないが、ともあれ、命に別状がなくて、本当によかった。彼女の姿が見えてから、お腹の中のノエルが喜んでいるような感覚がある。血の繋がりがあるのは、間違いない。


水を一息に飲んで、少し落ち着いた様子の彼女は、訥々と話し始めた。


「助けてくれて、ありがとう。私はエルデ。あなた達は?」


「俺はアロー、こっちは妹のユーリ。これから首都まで作物を運びに行くところなんだ。あんた、立てるかい?」


「いえ……ちょっと眩暈がして……身体に力が入らないみたい」


「エルデさん、よかったら家族のいるところまで連れていこうか? 足元も覚束ないようだし」


「家族……いえ、私に親兄弟はいないの。天涯孤独って奴ね」


「そうか。いや、立ち入った事を聞いて、ごめんよ。だったら、自宅まで送ろう」


隣で話を聞きながら、内心、とても複雑な気持ちになった。

この人はノエルと血縁がある。でも家族もなく孤独に暮らしていたなら、ノエルの父親がどこにいるのかなんて、全然知らないだろう。話は振り出しに戻ったのだ。


しかも彼女から話を聞くにつれ、ノエルから喜びが消えて、代わりに悲しみが伝わってくるようになってきた。それが辛い。


荷台の野菜を横に寄せて、人一人が横になれるスペースを作り、そこにエルデさんを寝かせると、私達は出発した。彼女の家も首都にあるとのことで、このまま一緒に乗せていく。


「ユーリ、石を貸して」


不意に隣のアロイス様から声を掛けられる。本名ではないけれど、両親以外、こんな親し気に名を呼ばれることなど滅多にないから、変にこそばゆい。ペンデュラムをこっそり渡すと、彼は魔法陣の部分に、何事かの念を込めた。


彼女エルデをカウントしないようにした」


彼はそう言うと、私に石を差し出した。荷台を振り返ると、エルデさんは眠っている様子だ。


「指し示せ」


【西に4クエル、北に8クエル】


革紐を手で持ち、小声で石に命じると、石も小声で返してきた。


「4に8……おそらく首都のどこかだな。近くに別の血縁者がいてよかった。彼女を送ったら、その足で探すか」


彼女は天涯孤独だと言っていたのに、ノエルの血縁、すなわちエルデの血縁でもある誰かは、同じ首都に住んでいる。この御時勢、孤児は珍しくない。でも、身内が本当はすぐ近くに住んでいるのに、本人は知らずにいるなんて……


荷馬車に揺られながら、私はアロイス様に問い掛けた。


「ねえ、アロ……お兄ちゃん。もし、もしもね、『例の人』が見つかったら……エルデさんの身内なのも、間違いないでしょう? 彼女に教えなくていいのかな……?」


彼はしばしの沈黙の後、答える。


「時と場合によるが……腹の子の『父親』は、ほぼ間違いなく邪法に手を染めている。他の違法行為に触れている可能性も高いだろう。そんな人間なら、むしろ存在を知らない方が、本人のためではないか?」


想像通りの回答だった。そして、大人の常識に則った答えだ。そんなことの為に、わざわざ隣国に来たのではないのだ。理解はできる、ただ、少し寂しかった。




***




私達はエストリール最大の都市、首都クレストまでやって来た。辺り一帯には霧が立ち込め、昼間なのに薄暗い。建物は比較的新しいものが多いが、人通りはまばらだった。

その数少ない通行人の一部は、独特の黄色い外套を羽織り、黒い帽子を被っている。これが、噂に聞く怪しい集団の……

なるべく彼らと目を合わせないようにしながら、馬車を進めた。


目を覚ましたエルデさんの道案内で私達が到着したのは、町外れの小さなアパートメントだ。


「ここの二階に私の部屋があるわ。送ってくれてありがとう」


そう言いながら階段を登ろうとする彼女は、やはりまだふらついている。


「お兄ちゃん、部屋まで連れて行ってあげて……」


私が言い終わる前に、アローはエルデさんの背中と膝裏に腕を掛けて、サッと抱き上げ、階段を昇って行く。

私も急いで後を追った。


ドアの向こうの彼女の部屋は、殺風景の一言に尽きた。テーブル一つ、椅子が一つ、古ぼけた棚が一つ、くたびれたベッドが一つ。数着、ハンガーにぶら下がっている服は、男物ばかりだ。彼女をベッドに寝かせた『兄』は、私と入れ替わるように、足早に部屋を出て行った。


「宿を探して、荷馬車を預けて来る。お前はしばらくここで待っててくれ」


と言い残して。私は意図せず、エルデさんと二人きりになった。


「大丈夫ですか?」


「そうね…一応、生きてはいられるわね」


それを聞いて、お腹の方から、ショックを受けたような振動が伝わった。私も切なくなる。


「あの、私に何かできないでしょうか?」


「ありがとう。でも、あなたに頼めそうな事は…………

いえ、もしも、もしもだけれど……

あなた達が、どこかで、赤い髪の大柄な男の人に出会ったら、私がここにいると伝えて欲しいの」


「赤い髪の?」


「ええ、右の手のひらに、赤い、獅子の横顔のような痣がある人よ」


赤き、獅子……?


寝床に散らばる、長い、虹がかったミルク色の髪。彼女の、どこまでも深い黒い瞳が、私を見据える。


……白き闇?


二つの言葉が、私の中で繋がった。これは、一体、どういうこと……?

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