第十六話 私たちの頭上を
一夜が明けた。雲に一面を覆われた朝の空は、降りそうで降らない。窓を離れ、身体を締め付けないワンピースタイプの寝間着から、村娘の服装に着替える。しばらくすると、ノックの音と、低い声が聞こえてきた。
「今、いいだろうか」
アロイス様だ。すぐにドアを開けそうになるが、思い留まる。
「白き闇」
「赤き獅子」
間違いない、本人だ。ドアを開けると、アロイス様は急いで中に入り、ドアに魔法をかけ直した。
これは合言葉だ。たとえ、アロイス様の声であっても、本人とは限らない場合がある。
エストリールは、現在、怪し気な魔法を使う集団が、跋扈している土地だ。念には念を入れるように、と荷馬車での移動中に決めた。
白き闇と赤き獅子が何なのか、私には分からない。彼が昔、任務で使っていた言葉らしいが、何となく格好いいので、そのまま使うことにした。
「この宿には、水回りの設備が整っていない。顔を洗う水も自分で汲まなければならないようだから、今から浄化の魔法をかけよう。まず十秒、呼吸を止めてもらいたい」
アロイス様が私の頭に手をかざすと、目の前に、実体のない水のようなものが現れ、全身を包み込む。
身体中にシュワシュワした感覚がして、少しこそばゆい。きっかり十秒後、水は消えた。
「はい、息をして」
肺に溜めていた空気を大きく吐き出す。先ほどと比べ、全身がサッパリしていた。風呂のような、体温の変化によるリラクゼーション効果はないけれど、どこもかしこも綺麗になった感覚がある。
終わった……と、思ったら
「では、今度は口を閉じて、四秒、息を止めて」
と言われて、慌てて口を閉じる。
アロイス様は私の顔をまっすぐに見据えながら、人差し指で私の上唇に触れ、「一、二」
続けざまに下唇に触れ、「三、四」
この人は、いつも、すぐ、こういうことを、前触れもなく……
……いや、多分、この人は本当に、私に対して、妹か何かのような感覚でいるのかもしれない。
「これで、口腔内も清潔になったはず。さあ、食事に下りよう」
彼は特に表情を変えることもなく、ドアを開け、階段の方に私を招く。
気恥ずかしさを隠しつつ、私は彼に付いて階段を下りた。
***
黒パンとチーズの簡単な朝食を終えると、再び私達は荷馬車の御者台に並んで乗る。昨夜、人参をやったのを覚えていたのか、馬は私の顔を見て、嬉しそうに歯を見せていた。
「この先に村はない。国境を越えたすぐのところに、小さな宿場町があるから、今夜はそこまで行こう」
いよいよ、隣国へ……否が応でも、緊張感が高まる。
ときどき休憩を入れつつ、私たちの荷馬車はゆっくりと、国境に近付いていった。
半日ほど移動したところで、食事をとることになり、アロイス様が、石で小さな釜戸を作り、積んでいた炭と藁に火を点け、小鍋で簡単なスープを作った。こんな時に、何もできない自分がもどかしい。とりあえず、鍋の周囲に藁の束を置き、上から布をかけて、座る場所を二ヶ所、作ってみた。
彼は苦笑しながら、その内の一つの上に座る。そして再び真面目な顔になり、鍋をかき混ぜながら、静かに言った。
「御令嬢、今から、王立魔導士団長として、話をする。
万が一、私に何かがあった場合は、助けようなどとは思わないこと。
その子が一緒なら、戦えなくても、その場を逃れることくらいはできるように思う。
とにかく、すぐに逃げ、故国に戻って欲しい」
「そんな!」
「私が居なくなれば、国の防衛力は落ちるだろうが、いずれ代わりは現れる。数で補うこともできるだろう。だが、あなたの代わりになる人間は、いない。陛下は心配していたが、私にはあなたの身に起こったような事が、この先もホイホイ起こるようには思えない」
「でも……!」
「大丈夫だ。私は負けたりしない。あくまで、万が一の話だ」
手渡されたスープは干し肉の味が野菜に沁みて、美味しかった。だけど……心から味わう気持ちにはなれなかった。
再び、荷馬車に揺られ、旅路を進む私達。でも、二人とも、ほとんど無言だ。
夜が訪れる頃、曇っていた空は徐々に晴れ、満天の星空へと姿を変えた。
しかし、その真下には煤けた茶色の塀が、深緑を帯のように分け隔てる、物々しい景色がある。
ここがグリスローダとエストリール間の関所……煉瓦造りの堅牢な塔が左右に立ち、厚い金属の扉がその間を塞いでいた。関所の左側には、切り立った山。右側には深い渓谷。両国を行き来するには、ここを通るしかない。通行料を払い、通ろうとすると、門兵に止められた。
「おい、停まれ。積荷を検査する」
若い門兵が荷台を確かめる間に、アロイス様が兵長らしき男に小さい革袋を手渡し、何事か囁く。すると、検査は即座に終わり、門はあっさり開かれた。賄賂、なのだろう。正直、あまり見たくないところを見てしまった。だが私を待たせないための配慮だと思うと、何も言えない。
荷馬車がゆっくりと動き出した。扉一枚向こうの世界は、さっきまでいた、グリスローダの雰囲気と、さほど変わらない。
膝の上で握った拳を、少し緩める。
だが、私達が国境の門をくぐり終えた瞬間、大きく地鳴りが響いた。遠い西の地平線すれすれの空が、橙色に染まる。空気がビリビリ震え、地の果てから何かが迫ってきた。
星だ。
昼間の太陽よりも大きく見える、真っ赤な星が長く、禍々しい尾を引きながら、濃紺の星空を割いた。
私たちの正面から、頭上を越えて、後ろに向かって空高く駆けていく。
二つ目の逆流星だった。
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