第五話 実験台になど、させない

「待て! そこで何をしている!」


下から声が響いた。お父様だ。城から帰ってきたのだ。馬車の前で、数人の人々と共にこちらを見ている。


「お父様! 助けて!」


バルコニーの手すりから、身を乗り出すようにして叫んだ。

直後に、母が私の後頭部の髪をわし掴みにして、力ずくで手すりから引き戻す。


「あなたは黙っていて! 娘を守るには、他に方法がないのよ! さあ、皆も手伝って!」


だが、血走った目で父を恫喝する母の姿に、メイド達も違和感を覚えたのか、立ちすくんだままだ。


「もういい!私一人でやるわ!」


母が瓶の口を、私の口元に押し当てて、無理やり薬を飲ませようとした、その時……




私の身体が、ふわりと宙に浮き、母の手を離れた。


まるで自分が風船にでもなったかのように、重さを感じない。

取りすがろうとした母が、私に触れた瞬間、バチッと火花が散り、すぐさま手を引っ込める。


私の身体は安楽椅子に座ったような体勢で、ゆっくりとバルコニーの手すりを越え、お父様達がいる方へ降りていった。

そして、父のすぐ隣に立っていた人が差し出す両腕に、横抱きにして抱えられ、直後に重力が戻る。


……えっ!?


私を受け止めたのは、アロイス様だった。


すぐ目の前に、この国で誰よりも美しく整った顔がある。

驚きで表情が固まっている私を、彼は地面に下ろして立たせた。

そして間髪を入れず、身に着けていたローブを広げ、私の身体を覆い隠すようにして、抱き寄せる。


「御令嬢、今は身動きを取らぬように。危険だ」


私は頷き、ローブの中で息を潜めつつ、周囲の様子を窺った。


「待ちなさい!」


母は叫ぶと、バルコニーの手すりを乗り越え、私達の二馬身ほど手前に飛び降りてきた。


そんな馬鹿な……

お母様は社交界でも、しとやかな夫人として名が通っているのに。

あの高さからヒールで飛び降りて、怪我の一つも無さそうだ。


「娘を返して! さもなくば……」


すでに鬼女といっても差し支えない形相の母の右手に、鋭いナイフのような長い爪が、ゆっくりと生えてきた。

その様子を目の当たりにした父も、周囲の人も、言葉を失っている。


「さもなくば?」


アロイス様が、問い返す。


「……殺す!」


言うや否や、彼女は私達に飛びかかってきた。


その瞬間、一閃する光。


いつの間にか私達と母の間には、輝く半透明のベールが張られていた。

光る衣のような薄い壁は、瞬く間に母を包み込んで自由を奪う。

そのまま地面に倒れ込んだ母の傍らに、転がる薬瓶。

それを拾い上げたアロイス様は、小瓶を一瞥すると、空間に小さな切れ目を作り、そこに瓶を押し込んで隠してしまった。


あっけにとられるその場の人々を気にも留めず、アロイス様はお父様に向かって声を掛けた。


「侯爵殿。あなたと奥方様は、昨夜、精霊の加護を受けていませんでしたね?

今すぐ行いましょう」


アロイス様が指先で、宙に小さな召喚陣をサラリと描いた。そこから、仄かに白く輝く蝶が二匹現れると、それぞれが両親の胸元に羽ばたいて行く。


蝶が役目を終えて、光の粒になって消えていくのと同時に、女性の啜り泣きが始まった。


「う…う……私……私は、何を……」


大粒の涙がなみなみと溢れる瞳は、いつものお母様のもの。


「お母様!」


アロイス様が、すっ、とローブを広げてくれて、私は即座にお母様に駆け寄った。


「ユリエル……私、どうしたの? 何をしたの?

さっきまでずっと頭が痛くて、何も思い出せない……でも……

急に身体の中を、きれいな泉の水が流れていったような感じがして……」


「お母様、無理をしないで」


私が白い手をそっと握ると、しばし目を閉じ、安らかに少しずつ寝息を立て始めるお母様。

お父様が使用人達に指図をして、母は寝室へと運ばれていった。この後、医者を呼ぶという。




私は玄関脇の支柱にもたれかかった。すっかり安心し、胸を撫で下ろすと、ふと視線に気付いた。

アロイス様が私の顔をじっと見ている。一瞬、鼓動が速くなったが、彼は眉を顰めて言った。


「口元に、毒が付いている」


そう言えば、さっきお母様に毒を飲まされそうになった時、少し付いたかもしれない。

慌てて手で拭おうとすると


「待ちなさい」


と制止された。

アロイス様の人差し指がほんのりと輝きだす。彼はそのまま、指で私の下唇にそっと触れた。

そのまま、横に二、三往復させると


「これでいい」


と一言残し、彼はお父様の方に向かって歩いていった。

顔が真っ赤に染まった、私を残したまま。




***




「いや、助かった。さすが、この国最高の魔導士と呼ばれるだけのことはある」


我が家にいくつかある中の、装飾が一番豪華な応接室で、父が感心したようにアロイス様に言った。


「大したことはありません。それより侯爵殿、話の本題がまだです」


それを聞いて、私は硬直した。

そうだ。私はこの後、魔導研究所に送られるのだ。

子どもと一緒に、モルモットとして、得体のしれない実験に付き合わされる……

無意識に、両手でお腹の前を隠すようにして、俯いた。


私の手にチラリと目線をやったアロイス様は言う。


「御令嬢、安心するといい。実験台になど、させない。

あなたを研究所送りにしないよう、私と侯爵殿とで陛下に進言し、取り止めになった」


驚き、顔を上げる私の目を見つめながら、アロイス様は続けた。


「その代わり、この件に関しては、私が直接調査すると願い出た。

処女懐胎の謎は、必ず解明しなければならない。

もちろん、傷付けるようなことはしない、あなたも、子どもも。


だから御令嬢も、なるべく私に協力を願いたい」


それは、かまわない。しかし、一つだけ聞きたいことがあった。


「あの……母はどうして、あんなことになったのですか?」


「それは、今ここでは答えられない。私の自宅に移ってから話そう」


「は……はい」


そう答えるしか、選択肢はなかった。

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