第111話 敗者の目に映るのは(上)

「…………あ」


 シュバルツの……双子の兄が繰り出した刺突がヴァイスの胸を深々と抉る。

 真っ赤な血が噴き出す。命が流れ落ちていく。

 ヴァイスは生まれて初めて、自分の死を明確に自覚した。


(フィーナ……!)


 薄れゆく意識の中で、ヴァイスの脳裏に浮かんでくるのはここにはいない恋人の顔である。

 彼女の顔。声。匂い。温もり。滑らかな肌の感触まで……すでにこの世から喪われたそれを、ヴァイスは今でもハッキリと思い出すことができた。


 ヴァイスの恋人はお菓子屋の店員をしていた。

 出会いはごくありふれたもの。たまたま、お忍びで店を訪れたヴァイスは売り子をしていた彼女と出会った。


『いらっしゃいませ! ご注文をどうぞー!』


『…………!』


 お日様のような笑顔を振りまいている女性だった。

 自分でもチョロいと思わなくもないが……一目で心を奪われてしまった。

 もしも彼女が隣にいてくれたら、きっと毎日が宝石のように輝くものになるだろう……そんな漠然とした確信がヴァイスの胸に生じる。


『い、いや、でも良くないよ。僕は王太子なんだから……平民である彼女を妃にはできないよ!』


 いかにヴァイスが衝動的な人間であるとはいえ、最初から感情のままに彼女を傍に置こうとしたわけではない。

 ただの平民を隣には置けない。もしも彼女が豪商や有力者の娘であれば下級妃くらいにはできたかもしれないが……お菓子屋の店員には無理な話である。


『あ、いらっしゃいませ。また来てくれたんですね?』


 しかし……理性と感情は別物である。

 ヴァイスはそれからも引き寄せられるように、その店に通っていた。

 どんどん彼女に惹かれている自分がいる。

 昼も夜も彼女の顔ばかりが脳裏に浮かぶ。

 そして……彼女もまた、常連のヴァイスに心を寄せるようになっていた。


『あ……』


『大丈夫かい、フィーナ!?』


 そして、彼女が暴漢に襲われていたのを助けたことが切っ掛けに、秘めたる想いは爆発する。

 二人の手が重なり、思いが交わり合う。

 ヴァイスは自分が王太子であることを明かしたが……身分の違いは愛情の炎を燃え上がらせる恋人達にとって、焼け石に水でしかなかった。


『一緒に逃げましょう、ヴァイスさん!』


 駆け落ちを提案したのは彼女の方だった。


『お金も地位もいりません。私がヴァイスさんのことを幸せにします! 一緒に逃げて、遠くの国で夫婦になりましょう!』


『フィーナ……わかったよ! 一緒に逃げよう!』


 二人は手に手を取って逃げ出し、船に乗って北を目指した。

 目的地にしたのは彼女の母親の故郷である。

 彼女の母親は外国から流れてきた移民であり、ウッドロウ王国で夫と出会って彼女を産んだらしい。

 彼女は以前から母親の故郷を一目見てみたいと思っていたため、そこを目指すことにしたのである。


 二人は王宮から放たれる追手を撒きながら、北を目指して進んで行った。

 平民育ちの彼女はともかくとして、王宮で生まれ育ったヴァイスにとっては平民の暮らしはそれなりに困難なものだった。

 それでも、愛する女性と二人での旅生活は新鮮で喜びの方が強かった。

 ヴァイスは旅の途中で魔物狩りを行ったりして、路銀を稼ぎながら遥か北方の国を目指していった。


 やがて、半年ほどかけてヴァイスと彼女はその国に到着した。

 北方ギルド連合国よりもさらに北にある雪国。ウッドロウ王国と付き合いのないその国ならば、連れ戻されることなく二人で暮らしていくことができるはず。

 ヴァイスと彼女はわずかな持ち金をはたいて家を借りて、そこで二人で暮らし始めた。

 ヴァイスは魔法を使って、彼女は借家の近くにあった酒場の店員として……生活費を稼いで、生活基盤を整えていった。


 決して裕福ではなかったが……幸せだった。温かかった。

 満たされていた……その日、その瞬間が訪れるまでは……。


『王女殿下! 王女殿下ではありませんか!』


『そのお顔、間違いありません……あの御方と同じ顔だ!』


『え……?』


 突如として、彼女の前に複数の騎士が現れた。

 彼らはヴァイスの恋人のことを『王女』と呼んだ。

 その邂逅によって、二人の安穏とした生活は崩れていくのであった。

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