幕間 翡翠色の日常


「~~~~♪」


 その日、『翡翠妃』であるヤシュ・ドラグーンはご機嫌だった。

 朝から非常に気分が軽くて、ヤシュの口からは鼻歌まで漏れている。


「ご機嫌ですね、ヤシュ様」


「ん……!」


 専属侍女のメエーナに訊ねられ、ヤシュはコクコクと頷く。

 いつも通りに踊り子のような民族衣装に身を包んで、顔の下半分をヴェールで隠したヤシュは、朝食を終えるや窓の外を指差した。


「お外、いく」


「お散歩ですね、参りましょうか」


 メエーナも頷いて、ヤシュを連れて翡翠宮の外に出る。

 竜人の本能に覚醒してドラゴンに変身してしまった彼女であったが、数日前、ようやく後宮に戻ってきた。

 以前の生活に戻ったヤシュであったが……何もかもが元通りというわけにはいかない。大きく変わっている部分もあった。


「見て、あれが例の獣人のお姫様よ……」


 庭園を散歩しているヤシュに向かって、後宮で働いている女官達がヒソヒソ話をはじめた。


「本当に帰ってきてたのね……誘拐されていたと聞いたけど、本当かしら?」


「私は化け物に攫われたって聞いたわよ。空に飛んでいく怪物を見た子もいるみたいだし」


「迷惑なことよねー。あの方がいなくなって、どれだけの人に迷惑がかかったのかしら?」


「ひょっとしたら、恋人と駆け落ちしていて無理やり連れ戻されたのかもしれないわね。獣の国の人は奔放だって話だし。小さく見えるけれど、随分と遊んでいるんじゃないかしら?」


 表向き、誘拐されていたことになっているヤシュは後宮の中でも浮いた存在となっている。

 以前からその兆候はあった。ヤシュは獣人であり、一部の人間からは差別や嘲笑の対象である。

 加えて、メエーナ以外と口をきくことがなく、いつも通訳を介して会話をしていた。顔もヴェールで隠しており、それが好奇の目を向けられる原因となっていたのである。


「角まで生やしちゃって不気味よねえ。同じ人とは思えないわあ」


 そして……ドラゴンとして覚醒をした彼女の頭部には左右二本の白い角が生えていた。

 それが周囲から向けられる奇異の目に拍車をかけており、口の悪い者達に話題を提供していたのである。


「…………」


「ヤシュ様……相手をする必要がありませんわ。移動しましょう」


 自分に向けられた嘲笑を耳にして、ヤシュが立ち止まる。

 メエーナが気遣わしげに声をかけるが……その日のヤシュはいつもと違っていた。


「ん……」


「ヤシュ様っ!?」


 ヤシュは進行方向を変えて、影口を叩いていた女官らの方へとズンズン歩いて行ったのである。


「…………」


「あ……し、失礼いたしました」


 無言で近寄ってくるヤシュに気がつき、女官らが慌てて頭を下げた。

 いかに獣人の姫として嘲弄を受けるヤシュであったが、同盟国から嫁いできた上級妃には違いない。

 彼女の怒りを買ってしまえば、女官の首など容易に飛んでしまう。

 最悪の未来を頭に浮かべて顔を青ざめさせる女官達であったが……ヤシュが口を開く。


「こんにちは、よい、天気。ですね?」


「…………!?」


 たどたどしく紡がれる言葉。

 その澄んだ声音を耳にして、女官が目を見開いた。


「しゃ、しゃべれたのですか……?」


 ある意味では失礼な発言であったが……後宮にやってきてから、ヤシュはずっと通訳を介して会話をしていた。

 こうして女官と直接、会話をするのは初めてのことである。女官らが驚くのも無理はないことである。


「はい、もう、必要ない……です」


「は、はあ?」


 事情を知らぬ者には意味の分からない発言である。

 ヤシュがこれまで会話をしなかったのは、亜人連合国の姫として掟を守っていたからだった。

 亜人連合国ではやんごとない身分の姫は夫や一部の使用人以外と話すことが禁じられている。ヤシュもその掟を守り、これまで沈黙を貫いてきた。

 しかし、ヤシュはすでに自分が祖国から利用され、王太子を暗殺するための捨て駒にされたことを知っている。

 祖国への思い、盟主である母親に対しての思いは急速に冷え切っており、もはや掟を守る必要はなくなっていたのだ。


「これも……いらない、です」


「ええっ……!?」


 ヤシュが顔を覆っていたヴェールをはぎ取った。

 紫色のヴェールの下から美しい少女の相貌が現れる。


「あ……え……?」


 ヤシュの素顔を目の当たりにして、女官達が見事に固まっている。

 目元だけしか見えなかったが、可愛い顔をしているとは思っていた。

 だが……実際に目の当たりにしたヤシュの素顔は、女官達の想像をはるかに上回っている。

 翡翠色の宝石のような瞳。新緑のごとき髪。

 スラリと通った鼻筋に、花のつぼみのような唇。肌は褐色であったが、それがまたヤシュの不思議な魅力を引き立てていた。

 整い過ぎた顔はうつつのものとは言い難く、まるで神話に登場する妖精か天使のように幻想的である。


「は……ああ……」


 女官達は人間を超越したような美貌を目にして顔を真っ赤にして……次いで、蒼褪めさせる。

 自分達はとんでもない存在を侮辱してしまったのかもしれない。

 地位や身分ではなく、生物としての格の違いを一瞬で思い知らされてしまった。


「わ、私達は何ということを……どうか、お許しくださいませ。翡翠妃様!」


「…………?」


 地面に手をつけて平伏する女官に、ヤシュは首を傾げた。

 別に叱りつけようとしたわけではない。これまで掟を守って会話をしたことがなかったので、せっかくだから直接挨拶をしようとしただけである。


「いい、ゆるす」


 とりあえず、許しておく。

 対人経験が少ないために、ヤシュは先ほど女官が口にしていた言葉が侮蔑であることに気がついていなかった。


「ありがとうございます! 今後は誠心誠意、心を込めて翡翠妃様にお仕えいたします!」


「…………よろしく?」


「はい!」


 両手を地面についたままキラキラとした目で見上げてくる女官達に、ヤシュは内心で嘆息する。


(ただ話しかけただけなのに……もう仲良くなっちゃった。やっぱり、通訳を使わずに話すことって大事なの。これからは皆といっぱい話そう)


 ヤシュは正体不明の居心地の悪さを感じながら、内心でコミュニケーションの大切さを思い知った。

 その後、ヤシュは積極的に女官や侍女と話をするようになる。

 普段からヴェールを取って素顔で生活しようとするヤシュであったが……それは「発狂する人がいるからやめてください!」と女官全員から止められたため、やむなく断念するのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る