第76話 ヤシュという女


 ヤシュ・ドラグーンは亜人連合国の盟主の娘としてこの世に生を受けた、亜人連合に五人といない『竜人』の一人である。


 竜人はドラゴンとも呼ばれる伝説の存在であり、古代は神にもっとも近い生物――『神獣』などと呼ばれていた。

 現在でも獣人種という亜人の中では神のよう崇められており、亜人連合において実質的な王のように扱われている。


 そんな稀少種族に生まれたヤシュであったが……幼い頃から離宮の奥深くに閉じ込められており、一歩も外に出ることなく生きてきた。

 宮殿に閉じ込められているヤシュと接触するのは数人の侍女や臣下のみ。

 たまに外の世界からやってきた商人などと接触することもあるのだが……顔を半分隠し、直接言葉を交わすことも許されていなかった。


 ヤシュにとっての世界は宮殿の中だけ。

 そして、外の世界を知る手段は送られてくる本を読むことだけである。

 ヤシュは毎日のように外からもたらされた本を読み漁った。恋愛も冒険活劇も歴史小説も……あらゆる物語を平等に愛した。


「サクラ……ウミ……ネコ……?」


(『サクラ』というのはどのような色の花なのでしょう? 『ウミ』というのはどれほど大きいのでしょう? 『ネコ』というのはどのような生き物なのでしょう?)


 ヤシュは本を読んでは外の世界に思いをはせ、時に首を傾げ、時に瞳を輝かせていた。


 ヤシュは知らない。外の世界を。

 ヤシュは知らない。山や森を匂いを。

 ヤシュは知らない。海の広さを。

 ヤシュは知らない。地平線に落ちる夕日を。

 ヤシュは知らない。魔物と呼ばれる生き物を。

 そして……ヤシュは知らない。父の頼もしさを。母のぬくもりを。


 ヤシュは生まれる前から父親がおらず、亜人連合の盟主を務めている母親は娘に会いに来ることがほとんどなかった。

 母親と会話をした記憶も数えるほどしかない。

 一度だけ、母に父親のことを聞いたことがあったのだが……母は急に悲しそうな顔をして、しばらく離宮に会いに来てくれなくなったので、それ以上は追及していない。


 そうやって離宮の奥に閉じ込められること五十年。

 ようやくヤシュに外出の機会が与えられた。北方の隣国であるウッドロウ王国から縁談が届いたのだ。

 王太子にして次期国王であるヴァイス・ウッドロウのために後宮が築かれることになり、妃を募集しているとのこと。

 母親である盟主はヤシュを妃として送り込むことを決定して、ようやく離宮から解放したのである。


『いいですか、ヤシュ。王太子であるヴァイス・ウッドロウのことを愛しなさい』


 久しぶりにあった母親は、ヤシュの顔を覗き込んでそんなことを口にした。


『全力で、全身全霊で愛しなさい。それがこの国のためになる。百年前の大戦から続いている我が国と彼の国との因縁を断ち斬ることになるのだから』


「はい……わかり、ました……」


 ヤシュはたどたどしい口調で母の言葉を了承した。


(私が平和のための架け橋なんだ。私とヴァイス殿下が結ばれることで、両国の平和が築かれる……)


 かつて亜人連合国とウッドロウ王国は戦争をしており、多くの亜人が捕まって奴隷となっていた。

 終戦から百年経って因縁は薄れているが……いまだ長命の亜人の中にはウッドロウ王国への憎しみを抱いている者がいる。

 ヤシュは自分が嫁ぐことでそんな憎しみの輪廻が断ち切られるのだと信じていた。


 そう……ヤシュは知らなかったのだ。

 母親――亜人連合の盟主もまた人間を恨んでいる亜人の筆頭であることを。

 竜人が人を愛することでドラゴンに変身し、愛するものを喰い殺してしまうという習性があることを。

 母親もまたそんな習性のために愛する男と結ばれることを諦め、好きでもない男と政略結婚をしてヤシュを孕んだ。ヤシュは母親にとって利用価値のある手駒でしかなく、愛情など欠片も注がれていなかった。


 ヤシュは知らなかった。

 自分がヴァイス・ウッドロウを殺害するための捨て駒として送り込まれ、両国の戦争を再開させる火種として利用されることを……ほんの少しも予想していなかったのである。

 しかし、それからヤシュの身に降りかかる出来事は、ヤシュの予想も亜人連合の予想も大きく裏切るものだった。

 ヤシュはウッドロウ王国に嫁いだことにより、本当の意味での運命と出会うことになる。


 すなわち、ドラゴンの愛情という呪いを断ち斬ることができる……運命の相手と出会うことになるのだった。

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