第72話 魔境
『ガアアアアアアアアアアアアッ!』
山に入るや、すぐに熊の魔物が襲いかかってきた。
体長二メートルほどで頭部にナイフのように鋭い角を持った熊が、シンラめがけて腕を振り下ろしてくる。
「ハアッ!」
しかし、シンラは重力を感じさせない軽やかな動きで跳躍して攻撃を躱す。そのまま熊の背中に着地して、首の後ろに刀の切っ先を突き刺した。
『ガッ……!』
シンラの刀は首から頭蓋骨の内側に滑り込むように魔物の体内に刺さっていく。
絶対の急所。脳幹と呼ばれる生命維持の中枢を破壊され、熊の瞳から光が消える。巨体がゆっくりと倒れて地面から「ドシン」と重い音が響く。
「へえ……流石だな」
シンラの鮮やかな一撃を目にし、シュバルツが感嘆の声を漏らす。
熊は頭蓋骨がぶ厚く、頭部に剣を振り下ろしても弾かれてしまうことが多い。仮に頭部を両断することができたとしても武器が傷んでしまう。
だから、シンラは熊の首から急所である脳内に刀を滑りこませ、骨を極力避けて脳を破壊したのだ。
「俺と闘ったときよりも腕を上げたんじゃないか? 魔力も使わずにそいつを片付けられるとは恐れ入ったね」
シュバルツは素直な賞賛を口にする。
かつてシュバルツと決闘したシンラも強かったが……どこか『獣』のように力任せでたくましい印象が強い。
今のシンラは剣技に繊細さと緻密さが加わっており、磨き抜かれて冴えわたる斬撃には美しさすら感じさせられる。
「さあ……どうだろうな。技量が上がったというよりも『よく見えるようになった』というのが近いかもしれないな」
シンラが刀に突いた血を振り払いながら答える。
「かつての私は心の
「へえ……それは結構なことじゃないか。要するに強くなったということだろう? 頼もしいな」
「ああ、我が主の力になれるのなら誇らしい。破壊衝動に突き動かされて殺し、罪悪感に苛まれていた頃と比べると見違えるほどに清々しい。まるで浄土にやって来たようだ」
シンラが穏やかな笑みを浮かべてそんなことを言う。
『ガウッ!』
「フッ!」
直後、林の中から緑色の狼の魔物が飛び出してくるが、シンラが振るった刀によって一瞬で絶命させられる。
その後も幾度となく魔物が現れるが、シュバルツとシンラは危なげなく撃破して獣道を進んでいった。
目的の滝に到着したのはちょうど夕暮れにさしかかる頃である。
小説の舞台となったというその滝は山の中腹にあり、大きさは大人二人が両手を広げたほどの幅。山の上流から落ちてきた水が滝の下に小さな泉を作り、また下流に向けて流れていく。
飛び散る水滴が西日を反射してオレンジ色に輝く様子は確かに美しい。物語の中に描きたくなるのも納得できる幻想的な景色だった。
「ここが例の滝か……」
「どうするのだ、我が殿よ。ここでヤシュ妃殿が来るのを待ち構えているのか?」
シンラが訊ねてくる。少しだけ考えて、シュバルツは答えた。
「そうだな……念のために、近くの林に隠れておこう。俺達の姿を見たらヤシュが逃げ出してしまうかもしれないからな」
ヤシュはシュバルツのことを愛し、喰い殺したいという本能から竜に変化した。
まだヤシュに人の心が残っているとすれば、シュバルツに近づくことなく去ってしまう可能性がある。
「幸い、保存食は十分に持ってきている。新月である今晩はもちろん、二、三日だったら余裕で待てるさ」
「いざとなれば魔物でも狩って喰えばいい。私と殿だったら、一月だって山籠もりができるぞ?」
シンラが冗談めかして笑うが、実際に偽物の王太子であるシュバルツと上級妃であるシンラが一月以上も姿をくらませれば、それなりの騒動になるだろう。
「早めにヤシュが来てくれることを祈るばかりだな。祈ることしかできないのがもどかしいが」
シュバルツは林に身を潜め、保存食の干し肉を取り出してかじる。
その後、シュバルツとシンラは後退で見張りをしながら滝を見張った。
日が暮れ、夜はどんどん更けていき、真夜中を越えてもヤシュは姿を現さない。
夜明け近い時間になってアテが外れたかと諦めムードになった頃……ようやく、彼女は現れた。
『クルルルルルルル……』
喉を鳴らしながら、空から緑色の竜が降りてきた。
マナによって発光する滝の明かりに照らされて、エメラルドのような竜の鱗が幻想的に反射している。
「来た……!」
竜の獣人にして翡翠妃――ヤシュ・ドラグーン。
目的となる相手の姿に、シュバルツは手に汗を握りながらゴクリと固唾を飲んだ。
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