第62話 割れた翡翠
「危ないところだったな、我が殿よ。なかなかお呼びがかからないから肝を冷やしたぞ?」
絶命した大虎から刀を引き抜き、紅玉妃シンラ・レンが涼しげに声をかけてくる。
羊角の女官によって翡翠宮に呼び出されたシュバルツであったが、もちろん、その呼び出しが罠である可能性には気づいていた。
数日前、謎の人物によって街中で襲撃を受けたばかりなのだ。警戒を怠るほどシュバルツも馬鹿ではない。
とはいえ、頼みにしていた『夜啼鳥』――その首領であるクロハは多忙が極まり、急な呼び出しに応えることはできなかった。
そこで、シュバルツは代わりの援軍として紅玉妃にして卓越した武人であるシンラ・レンを呼び出したのだ。
シンラはシュバルツに指示されて庭園に隠れており、合図があるまで出てこないように命じられていたのである。
「助かったぞ。急に呼び出してしまって悪かったな」
「構わないとも。こういうのが『都合の良い女』というのだろう? 愛する男から粗雑に使われるのは存外に悪い気分ではないな」
「……たぶん、意味が違うな。というか何処で覚えてくるんだよ。そんな言葉」
シンラは刀を鞘に収め、滑るような足取りでシュバルツに近づいてくる。
シュバルツが何かを言うよりも先に愛する男の腕をとって愛おしげに抱き、花びらのような唇を開く。
「心配はいらぬ。私は『都合の良い女』ではあっても『ムシの良い女』ではない。働いた分の報酬はしかと頂こう。今夜は熱い夜を過ごそうぞ」
「おいおい……勘弁しろよ。ここは後宮だぜ?」
以前からシンラはたびたび後宮を抜け出しており、外でシュバルツと密会をしていた。
冒険者として活動するシンラの戦闘意欲を満たすため。そして、性欲を発散してシンラの中にいる『修羅』を抑えるためである。
妻であるはずの女性を後宮内では抱くことができず、わざわざ外で逢い引きをしなくてはいけない矛盾には首を傾げるばかりだが。
「仕方があるまい。私は水晶妃殿ほど器用ではないからな。女官に隠れて貴殿を招き入れることなど出来ぬのだ」
「普通は後宮の外に忍んで出ることの方が不可能なんだがな……そんなことよりも、まだ戦いは終わってない。とりあえず離してくれ」
「む……?」
シュバルツの言葉にシンラは目を瞬かせるが、すぐに彼女も気がついたのだろう。
この庭園に潜んでいるモノの気配に。まだ襲撃者が1人残っていることに。
「そろそろ出てこいよ。お前の仲間は死んだ。これ以上、隠れる意味はないぜ?」
「……仕方がありませんね。よもやここまで出来る御仁とは思いませんでした」
シュバルツの声に応えて、フードを被った小柄な人物が現れた。
どうやら、シンラと同じように庭園の片隅に身を潜めていたようである。
「あやつはどこかで……」
「ああ、シンラも知っているはずだ。そうだよな……羊角」
「そんな呼び方はしないで頂きたい。私の名前はメエーナと申します」
小柄な人物がフードを上げた。
灰色のフードの下から現れたのは白い髪の羊角の獣人。翡翠妃ヤシュ・ドラグーンの側近であり、通訳でもある女官である。
見覚えのある女官の顔にシンラも目を丸くした。
「ああ……茶会で顔を合わせたな。あの女官か」
「何らかの手段で人払いをしていたのもお前だな? 翡翠妃に仕える女官が裏で糸を引いているということは……命じたのはヤシュなのか? アイツとは仲良くなれたと思ったんだが……」
シュバルツはわずかに消沈して肩を落とす。
夏至祭の後に本をプレゼントしてから、ヤシュとの距離が急速に縮まったのを感じていた。
無口で無表情なヤシュが少しずつではあるが、確実に自分に心を開いているように思っていたのだが……それはシュバルツの勘違いだったのだろうか?
「ヤシュ様は今回の件には関わっておりません。無論、亜人連合の盟主様も」
しかし、羊角の女官は首を振った。
どこか憎々しげにシュバルツを見つめる女官の表情には諦観の色が浮かんでいる。
「仲間の獣人兵士を後宮内に手引きしたのも、王太子殿下の暗殺を謀ったのも、どちらも私の独断です。誓って、ヤシュ様は貴方の死を望んではおりません」
「だったら……語ってもらおうか? どうして俺の命を狙った。お前の目的は何だ?」
「……随分と乱暴な言葉遣いですわね。ひょっとして、そちらが地の口調なのですか?」
女官がどうでも良いことを聞いてくる。
王太子の命を狙った時点で彼女の命はないも同じ。わざわざヴァイスの仮面をかぶって相手をする必要がないだけだった。
「そんなことはどうでもいい。さっさと話せ」
「……貴方が悪いのです、ヴァイス・ウッドロウ。貴方がヤシュ様と親しくならなければ、命を狙う必要などなかった。ヤシュ様の心をこじ開けることがなければ……」
追及するシュバルツに、羊角の女官が観念したように吐露する。その内容はシュバルツには理解できないものだった。
「ヤシュ様のことを放っておいてくださるのなら、それでよかった。愛する必要などなかった。愛でてはならなかった。あくまでも外交の道具として後宮の片隅に放置しているだけで良かったのです。そうしてくだされば、どんなに良かったか……」
「おい、お前は何の話を……」
「今夜は月夜。満月です」
女官はシュバルツの言葉をさえぎって、頭上を見上げた。
夜空には煌々とした満月が輝いて金色の光を地上に注いでいる。
「古来より、月の光には不思議な力があると申します。それは決して迷信ではない。少なくとも……我ら獣人にとって、月は力を与えると同時に隠された野生を解き放つもの。出来ることならば夜が更ける前に全てを終わらせたかった。そうであれば、ヤシュ様をお救いできたのに……」
「だから何の話を……」
意味の分からない話を
だが……それよりも先に、この場に新たな登場人物が現れる。
「ヴァイス殿下」
「…………!」
仮初の名前を呼ばれ、シュバルツは声の方に目を向けた。
聞き覚えのない声。だが……どこか親しみを感じさせる声音である。
「ヤシュ・ドラグーン……!?」
声の方角に立っていたのはヤシュ・ドラグーン。翡翠宮の主である亜人の姫だった。
ヤシュは薄手の寝間着のようなものを身に着けただけの格好。珍しくというか、初めて見ることに普段から顔を隠しているヴェールも外されていた。
褐色肌の可愛らしい顔立ちが露わになっている。金色の瞳、蛇のように虹彩が縦に走った
「ヤシュ……どうしてここに? それよりも……どうしたんだ?」
シュバルツは異変に気がついた。
ヤシュの瞳はシュバルツを映していたが、どこか虚空を見つめているようでもある。
まるで夢を見ているような表情。夢遊病者のようにおぼつかない足取りで歩いてくるヤシュを、シュバルツは慌てて抱き留めた。
「ヴぁいす、様……おかしいの、です。わたしの身体、おかしいのです……」
シュバルツの腕に抱かれたまま、ヤシュが涙を讃えた瞳で見上げてくる。
訴える少女の肩は小刻みに震えていた。夏至を過ぎて夏に足を踏み入れたというのに、まるで寒さに凍えているようだ。
「落ち着け、何があった? 大丈夫だ、俺はここにいるぞ?」
シュバルツはヤシュの背中をゆっくりと撫でた。下心からの行動ではない。本心からヤシュのことを安心させたかったのだ。
ヤシュの前で巣の口調で話していること、普段は通訳を挟んでいるはずのヤシュが自分の口で語っていること――気にするべきことは他にもあったが、それ以上に不安げなヤシュの様子が気になったのだ。
ヤシュは今にも消え去りそうなほど儚く見えた。
今夜は満月。月の国から舞い降りた姫が故郷に帰ってしまうのではないか――そんな幻想的な錯覚すら感じさせる。
「ヴァイスさま……ヴァイス、さま……怖い。恐ろしい。ヤシュは……自分が自分でなくなってしまう、気がして……!」
「おい、しっかりしろ! 大丈夫だ、落ち着いて説明してくれ!」
「ヴァイス様……おしたいして、おります……ヤシュは、あなたのことを……愛して……あああああ、アアアアアアアアアアッ……!!」
「…………!?」
「あ、あああああっ、アアアアアアアアアアッ……!」
なおも声をかけ続けるシュバルツであったが……ヤシュは突如として、高い声を上げて身体をのけぞらせた。
細い両腕がシュバルツの胸を突き飛ばす。小柄な少女のものとは思えないほどに力強かった。
「ヤシュ!」
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
ヤシュの口から絶叫が放たれた。
気がつけば……ヤシュの緑色の髪の中から白い角が伸びている。
以前、本の読み聞かせをしている時にもそれはあった。だが……現在はその角がどんどん伸びていき1メートルの長さに達している。
「ッ……!」
「我が殿、下がってくれ!」
シンラがシュバルツの腕を引き、変貌していくヤシュから遠ざける。
異変はなおも続いていた。
ヤシュの肌を緑色の鱗が覆っていく。瞳が巨大がしてギョロリと動き、耳元まで裂けた口から爬虫類特有の割れた舌ベロが覗いている。
ヤシュの身体がどんどん大きくなっていき、その巨体は先ほどの大虎をも凌ぐほど。
十五メートル程のサイズになったヤシュの姿はもはや人間とは言えない。
「まさか……ドラゴンだと!?」
シュバルツは叫んだ。
それはこの世界において絶滅したとされる幻獣。
緑の鱗で覆われた細長い巨体に短い手足。蛇のような顔に白い角、背中に力強い翼を生やしたその怪物は『ドラゴン』と称される伝説の生物だった。
『クルアアアアアアアアアアアアアアアアッ!』
ドラゴンが頭上の月に向かって絶叫を放つ。
それは場違いさを思えるほど可愛らしい鳴き声だったが……同時に全身に鳥肌が立つような威圧感のある咆哮だった。
「ああ……もう手遅れなのですね、ヤシュ様」
変貌した主君を見つめ……羊角の女官が崩れ落ち、ハラハラと涙を流したのである。
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