第61話 花の下の罠(下)


『ガアアアアアアアアアアアッ!』


 大虎が勢い良く飛びかかってきた。

 その速さ、勢いは人間形態の時とは比べものにならないほど凄まじいものである。


「おいおい、デカいくせに機敏とは卑怯じゃないかっ!?」


 シュバルツはすんでのところで大虎の爪を躱す。地面に巨大な爪痕が刻まれる。

 身体が大きくなって質量が増したということは、当然ながら攻撃に込められた重みも増したということ。

 重量に裏打ちされた威力はまさに必殺。剣で受け止めたとしても、武器ごと潰されてしまいそうな破壊力である。


『どうした、ヴァイス・ウッドロウ! 貴殿の力はその程度か!?』


 大虎がネムルの声で挑発してくる。どうやら、獣の状態でも人の言葉が話せるらしい。


『魔法を使いたくば使ってみろ! 貴様が何を使ったとしても、小細工もろとも粉砕してくれようぞ!』


「勝手なことを言いやがるぜ……こっちの気も知らずによ!」


 シュバルツは魔法を使えない。

 厳密にいえば使えないわけではなく、全身の魔力を振り絞れば下級魔法程度は使えなくもないのだが……下級魔法程度では牽制がせいぜい。目の前の大虎を仕留めるほどの威力は出ない。


「かといって……この剣であの馬鹿デカい虎に致命傷を与えられるか?」


 虎の大きさ三メートルを超えていた。

 大虎に立ち向かうシュバルツの剣はまるで蟷螂の斧。いつもは頼みにしているはずの武器も巨大な獣を前にしたら玩具同然である。


『ガアアアアアアアアアアアッ!』


「ま……だからといって、このまま黙って殺されるつもりもないけどな」


 大虎が横薙ぎに腕を振るってきた。

 シュバルツは獰猛な爪が生えそろった腕をジャンプして躱す。逆に太い腕を足場にして飛び、大虎の顔面を斬りつける。


『ガアッ!』


「チッ……外したか!」


 出来れば眼球を斬るつもりだったのだが、剣先はわずかに逸れて鼻先を命中した。

 大虎はわずかに怯んだようだが……真っ赤な瞳でシュバルツを睨みつけ、今度は反対の腕を叩きつけてきた。

 攻撃の直後で回避が送れる。シュバルツの身体が吹き飛ばされ、ライラックの木に背中から衝突する。


「グッ……やれやれな腕力だぜ。参ったな」


 ライラックの幹がクッションになったおかげで最小限のダメージで済んだが、大虎の力には呆れさせられる。

 二度と元には戻れないという捨て身の覚悟で変身しただけあって、その強さは尋常ではなかった。


『ガウッ!』


「ッ……!」


 今度は大虎が噛みついてきた。

 迫ってくる巨大な顎を転がるようにして避けると、シュバルツの代わりにライラックの木が噛み砕かれてバキバキと音を鳴らして粉砕される。


「ああ、畜生! 花に申し訳ないことをしちまったな!」


 先ほど枝を散々に斬り裂いておいて今さらだが、シュバルツは心中でライラックに謝罪する。

 大虎に変貌したネムルに防戦一方と強いられるシュバルツであったが、この状況に不自然さを感じていた。


(どうして警備の兵士がやってこない? 兵士だけじゃない。これだけ大暴れしているってのに、女官も侍女も様子を見に来ないってのはどういうことだ?)


 獣人兵士との戦い、さらに大虎との戦い。

 これだけの大立ち回りによって轟音が鳴り響いているというのに誰の姿も現れなかった。これは流石に不自然である。


(何らかの魔法、あるいはマジックアイテムによって人払いをしているということか? 『夜啼鳥』の援護は期待できない。警備の兵士は駆けつけてこない。なかなかに面倒な状況じゃないか)


『大人しく我が牙の前の露と散るがいい! ヴァイス・ウッドロウ!』


「そう簡単に散るわけにもいかないんだがな……俺はまだ何も果たしてはいない。死ぬわけにもいかない……ここは借り・・を作ってやるとしようか」


 とはいえ……ここが後宮であるからこそ得られる助けもある。

 シュバルツは刻一刻と追い詰めてくる大虎に牙を剥いて笑い、援軍の手を借りる選択肢を取った。


「お前の力を貸してもらおう…………シンラ!」


「承知した。我が殿よ」


『ッ……!?』


 シュバルツの声に応えて、凛とした女性の声が返ってきた。

 庭園に植えられていた木の影から赤い影が飛び出してきて、若鮎が水面から跳ねるようにして宙に舞う。


「『孔雀風天』!」


 赤い影の正体は真紅の髪を靡かせた女性――紅玉妃であるシンラ・レンだった。

 シンラが風を纏った剣を振り下ろす。鋭い烈風が刃となって大虎の背中を斬り裂き、月下に鮮血が散る。


『貴様は……紅玉妃シンラ・レン! どうしてここにいる!?』


 どうやら、大虎は事前情報として調べていたのか、シンラのことを知っていたようである。

 もっとも……知っていたところで、彼女の刃を避けることなどできないが。


「備えあれば憂いなし。無策で罠の中に飛び込むほど、俺は無謀な性格じゃないぜ?」


『ヴァイス・ウッドロウッ……!?』


 その声は真下から聞こえた。

 大虎がシンラの登場に意識を奪われた隙に、シュバルツが大虎の真下に潜り込んでいたのだ。

 姿勢を低くして巨大な虎の下に忍んだシュバルツは、剣先を頭上に向けて鋭い刺突を放った。


「覇ッ!」


『グウウウウウウウウウウウウウウウウッ!?』


 シュバルツの剣が大虎の喉に吸い込まれる。

 人体の……否、あらゆる動物にとっての急所である部位に剣が埋まり、シュバルツの顔を返り血が汚す。

 しかし、強靭な獣の皮と筋肉が剣の侵入を阻んで完全に喉を貫くまでには至らない。


「ヤアアアアアアアアアアッ!!」


 だが、ダメ押しの一撃は頭上からやってきた。

 宙に舞い上がっていたシンラが大虎の上に着地し、落下の勢いのままに首に刀を突き刺したのである。


『ガッ……グッ……!?』


 上からの衝撃に押し込まれるようにして、さらに深々とシュバルツの剣が喉に突き刺さる。同時に、反対側から突き刺したシンラの刀もまた大虎の頸部をえぐる。

 首の前後から刺された二本の刃が大虎の体内で交差した。喉元と延髄をそれぞれ貫かれ、大虎の巨体がガクリと倒れる。


「おっと……!」


 シュバルツは慌てて剣を手放して飛び退いた。あと少し回避が遅ければ、虎の巨体に潰されていたことだろう。


『…………』


 大虎――ネムル・タイガーは地に臥してピクリとも動かない。庭園の地面に赤黒い血液が広がっていく。

 あえて確認するまでもない。ネムルはすでに絶命している。

 シュバルツをあと少しのところまで追い詰めた獣人の戦士は、シンラ・レンという予想外の伏兵の登場により破れることになった。


「悪く思うなよ? そもそも、先に5人がかりで襲ってきたのはそっちだからな」


「奇道もまた兵法なり。切り札とは最後まで隠しておくものなのだよ!」


「……自分で切り札とか言うなよ。夜中に元気だな」


 地に臥した大虎を前にして、シュバルツとシンラが軽口を言い合う。


 月下の庭園を舞台にして繰り広げられた死闘を制したのはシュバルツだった。

 庭園には大虎と4人の獣人の骸が転がっており、二度と起き上がってくることはなかったのである。

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