第110話 いるはずのない

 リビングで涙を流していた私は、家の中にいるお母さんに花火大会に行けなかったことを悲しんでいると悟られないように、必死に涙を止めた。

 私が花火大会に行けなくなって一番責任を感じているのはお母さんなので、お母さんに私が涙を流しているところを見られるわけにはいかない。


 私が、私だけが我慢をすればみんなが幸せになれるのだから、今日が終わるまでは絶対に誰にも涙は見せずに私だけ我慢しておけばいいんだ。


 そんなことを考えていた私の目に止まったのは、リビングの壁に吊り下げられていた浴衣だ。

 私が今日来ていくはずだったこの浴衣は、昔お母さんがお父さんと一緒に花火大会に行った時に着ていた浴衣なのだという。


 この浴衣を着て颯一君と二人で花火大会に行くのをどれだけ楽しみにしていたか……。

 屋台で買い食いするのも楽しみだったし、颯一君が言っていた穴場で花火を見るのも本当に、本当に楽しみだった。

 --おっと、これ以上考えるとまた涙が出てきてしまいそうなのでもう考えるのはやめておこう。


 そのためにはまずこの浴衣を片付けなければならない。

 いくら私が花火大会のことを考えるのをやめようと思っていても、私がいる部屋に浴衣が飾ってあったのでは花火大会のことを考えないなんて不可能な話だ。


 この浴衣を出してきてくれたのはお母さんだが、片付けるのが面倒だからという理由でずっとリビングの壁にかけられている。

 早く片付けてもらわなければ--そう思っていた矢先にお母さんがお手洗いから戻って来たので、私はお母さんに声をかけた。


「お母さーん。その浴衣片付けてくれない?」


「えぇ、いいじゃない。花火大会には行けなかったけどこれが飾ってあったら少しは花火大会に行った気分になるでしょ?」


「だからそれが嫌なんだって……。早く片付けて!」


「真白には少しでも夏の思い出を作ってほしいから。とりあえず花火大会が終わるまではこのままにしておくわね」


 そう言いながらお母さんはキッチンへと向かい、夕飯の準備を始めた。

 そんなお母さんに「えぇ……」とだけ伝えはしたものの、あまり無理に片付けるよう促すと私が花火大会に行けなかったことを後悔しているように見えるので、それ以上言うのはやめておいた。


 それでもやはり浴衣がそこにあると私の視界には浴衣が入ってしまい、どうしても花火大会のことを考えてしまう。

 

 あぁ……。また涙が出そうになって来た。

 私はお母さんに涙を流していることを気付かれないように、自分の部屋へと移動を始めた。


 その時、家のインターホンが鳴り響く。

 

 こんな時に一体誰なのかと思いながらも、宅配の人だったりしたらその人に罪はない。

 玄関の近くにいた私は何を迷うこともなくそのまま玄関の扉を開けた。


「はーい……」


「……真白、迎えに来たぞ」


「えっ--」


 扉を開くと目の前に立っていたのは、みんなで花火大会を楽しんでおりここにいるはずのない颯一君だった。

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