第49話 固いもの

「そ、その、それじゃあお願いします……」


 俺は倉庫の壁にもたれかかり、あぐらをかいて座っている。

 そんな俺の前に座った状態の天川は、緊張した面持ちで俺に体を預けてきた。


 そして俺は、自分の胸ほどの高さにやってきた天川を優しく抱きしめる。


「こ、こんな感じか?」

「う、うん。これだと狭い場所って意識しなくて済むし、しばらくは大丈夫そう」


 初めてこれほど近い距離まで近づいたが、予想以上の線の細さに俺はできるだけ力を抜いて天川に抱きついた。


 この状況、改めて考えてもやばすぎる。


 付き合っているわけでもない男女が、不可抗力とはいえこうして密室で抱きつくなんて、不健全極まりない。


 俺の体温は一気に上がり、心拍数も明らかに早くなっている。


「そ、それならよかった」

「窪田君、心臓の音がすごいよ? もしかして窪田君も狭いところ苦手だったりする?」


 天川に心拍数の速さを指摘された俺の心拍数はさらに上がる。


「えっ⁉︎ いや、全然⁉︎ あ、いや、ちょっと苦手だったりするかもしれないけど、天川ほどじゃないから大丈夫だぞ⁉︎」


 天川は男女関係に疎いから気付かれることはなかったが、普通はこの状況で心拍数が上がっているとなれば、天川を意識していることには気付かれる。


 最悪な状況を考えれば、邪なことを考えていることだってすぐにバレてしまうだろう。


 ピンチを切り抜けたからには、次にやってくるチャンスは確実にものにしたい。


「そ、そう? それならよかったけど」


 せっかく訪れた天川と距離を近づけるにはもってこいの状況で、緊張して興奮したせいで何もできませんでしたなんてことになるのだけは避けたい。


 俺は少し切り込んだ提案をすることにした。


「……あのさ、これからこうして二人でいる時だけは、お互いのこと名前で呼び合わないか?」

「……え? 名前で?」


 お互いを苗字で呼び合っている俺たちだが、それだとどうしても天川との距離を感じてしまう。


 なので、苗字ではなく名前で呼び合うことで、ちょっとでも距離を縮めようと考えたのだ。


「あ、ああ。でも別に嫌だったら無理して名前で呼ぼうとしなくても--。」

「颯一君」


 ただ名前を呼ばれただけのはずなのに、これだけ喜びを感じるとなると、俺の心は本格的に天川に釘付けになっているのだろう。


「--っ⁉︎」

「こんな感じでいいかな?」

「あ、ああ。もちろん」

「それじゃあ次颯一君の番」


 自分のことは名前で呼ばせておきながら、天川を苗字ではなく名前で呼ぶのはかなりハードルが高かった。


 情けない話ではあるが、最初に天川から俺の名前を呼んでもらってよかった。


 最初に名前を呼ぶよりも、呼びやすいのは確実だ。


「……真白」

「……なんかちょっとドキドキするね」


 ただお互いの呼び方を苗字から名前に変えただけではあるが、ドキドキすると言っているからには多少の効果はあったはずだ。


「でもなんで2人の時だけなの? 別に他の人の前でも名前で呼び合えばいいんじゃない?」

「そ、それはまあそうなんだけどさ。この方が特別感があるっていうか」

「特別、感か……。確かにいいかも。それじゃあ名前で呼び合うのは、2人でいる時だけね。…….あれ、何か固いものが……」

「っ--⁉︎」


 天川のセリフに肝を冷やすと同時に、俺は足を少しあげ、天川が感触を感じないような体勢をとった。

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