バブルガム・ディライト その2

「ちょっと、痛いよ……」


 伊藤の手を引っ張りショッピングモールを後にした佐藤に、そんな声がかかった。


「……悪い」


「別ににいいけどさ、いきなりどうしたの?」


「なんでも。少し、外へ出たかっただけ。エアコンガンガンだったし」


「アイス食べてなかったのに?」


「…………風に当たりたかったんだよ」


「ふうん」


 呟いた伊藤が先を歩いていく。それを佐藤はちょっと見てから、後に続く。


 どこに行くんだ、とは訊きづらい雰囲気が、今の伊藤からは発せられていた。


 二人は無言で夕暮れまぐれの街を歩いていく。


 先ほど騒いでいたデモ行進は、今やすっかり静かになっている。デモに加わっていた人々は地面にへた

りこみ、動けなくなったところを機動隊によって歩道まで移動させられている。その場にいた誰も彼もが涙を流し、嗚咽を漏らしている。デモ隊も機動隊も、道行く人々も。それを見ているだけで、佐藤はうるっとくる。


 空気を漂う感情誘導剤の残滓が、佐藤の鼻腔から脳内へと到達し、チップに作用したためだ。あるいは、そこここに表示されている広告に十分の一フレームで表示されているデータによるものか。それらによって、この辺りにいる人々は否応なしに、悲しい気持ちにさせられている。


 デモに参加していた人々も、デモを取り締まる機動隊の人々も、たまたま通りすがっただけの人も。それから、佐藤と伊藤も。


 ぐすぐす鼻水交じりの、自分が出したものか、あるいは伊藤が出したものなのか、はたまた、そこら辺にいる人のものか。


 伊藤は言葉を発することなく、ただ歩く。どすどすと聞こえてきそうなほどの強い足音の後に続いている佐藤からは、彼女の表情を窺うことはできない。


「なんで怒ってんだよ」


「怒ってなんかない!」


「怒ってるやつの言い方だぞ、それ」


「頭がすっきりしないってことは、怒ってないってことだもん。それに、かなでにわかるもんかっ。朴念仁のむっつりのくせに」


「む、むっつり?」

 伊藤からは答えが返ってくることない。先ほどよりも歩く速度は速くなっていて、今にも走り出してしまいそうだ。佐藤は小走りになって続く……。


 伊藤が公園の中へと入っていく。小さなその公園は、やっと弱くなってきた日差しに照らされている。うだるような熱気に包まれた公園には、人の姿は全くない。そもそも外を出歩いている人間そのものが少なかった。


 公園の中央で、伊藤は立ち止まる。


「や、やっと止まった……」


 ぜえぜえと荒い息を吐きながら、佐藤は言った。その額には、滝のような汗が浮かんでおり、ぬぐってもぬぐっても汗は止まらない。


「なんで、ここに」


「なんでって、理由はないよ」


「理由がない……」


「あっても、かなでには教えてやんない」


 ベーっと伊藤は舌を出す。怒っているときによくやるしぐさ。だが、佐藤には怒られている理由がとんと見当つかなかった。


「抱きついてきたけーちゃんを剝がそうとしたからか?」


「それもある」


「も? じゃ、じゃあアイスを一緒に食べなかったこととかか」


「それも正解」


「あとは……遊び行ったときにプリンを勝手に食べたことを根に持って?」


「それは今はじめて聞いたなあ」


「や、えっと。今はプリンの話なんてどうでもいいんだ。オレは、けーちゃんが怒ってる理由を知りたいだけで」


「考えてみてよ」


 佐藤はだるく感じる体をしゃんと伸ばし、腕を組んで考え込む。


「……オレのことが嫌い」


「バカっ。そんなわけないじゃん!」


「だ、だよなっ。嫌いなやつと一緒にいられるわけないよな」


 佐藤はうんうんうなりながら、伊藤の様子を窺う。


 先ほどまでの怒りは幾分か薄れていて、その表情には笑みも見える。だが、その目には、探るような視線が未だにあって、それが佐藤を緊張させた。


 ――間違ったことを口走ってしまったら、また、怒らせてしまうかもしれない。


 佐藤は周囲をきょろきょろ見渡す。周りには誰もいない。ブランコはそよ風に揺られて、その影を所在なさげに動かしている。


「嫌いじゃないとしたら、好きだから……とか?」


 言ってみて、佐藤はすぐに後悔した。自分から自分のことが好きなんだろう、だからくっついてきてるんだろう、と言っているようなものではないか。そんなの、自意識過剰が過ぎるではないか。


 そう思うと、顔から火が出てしまいそうなほどの羞恥心が、佐藤を襲った。恥ずかしいったらありゃしない。


「も、もちろん、友達として幼馴染としてだぞ!」


 慌てて付け加えたものの、伊藤からの返答はない。あたりは静寂に包まれている。


 もしかしなくても、軽蔑されてしまったのではないか。


 そう思いながら、佐藤は伊藤の様子を窺う。


 伊藤は顔を赤らめていた。


「ななななっ何言ってるの!?」


「だ、だよなっ! 好きだなんてそんな」


「そりゃあかなでのことは好きだよ? 好きだけど、それは友達としてで、その、らららららっラブって意味じゃなくてその」


 伊藤の顔は、熟れた果実のように真っ赤。炎天下の中を早歩きしていてもなお雪のように真っ白だった肌が、である。


 見たこともないしおらしい彼女の表情に、佐藤はごくりとつばを飲んだ。言葉はかけられなかった。


 沈黙を察したかのように、セミの鳴き声が一時止んだ。


「わ、わたしはかなでに感謝したかっただけで」


「感謝?」


「うん。だって、いっつも迷惑かけてるし」


 そんなこと、と佐藤は言おうとしたがやめた。確かに迷惑は被っている。先ほどだってそうだったし、勉強を教えたり宿題を写させたり……。


「別にあれくらいなら」


「でもでもっ、嫌そうな顔してるじゃん」


「まあ……」


「だからさ、お礼に、何かしてあげようかなって思って」


「じゃあ、抱きついたのとか、一つしかないアイスを食べようとしたのは」


「そういうのが男の子って嬉しいんでしょ?」


 頬をポッと色づかせながら言う伊藤に、佐藤は首をぶんぶん振って否定する。


「それは偏見だっ」


「だって、かなでのベッドの下にあったマンガにあったじゃん」


「あれは例外――ってか、どうしてあれがあるのを」


「お菓子取りに行ったときに、いろいろ見て回ったから」


 そっか、と佐藤が言う。


「さっきのプリンのお返しってことで」


 それを聞いた佐藤は笑う。それにつられて、伊藤もまた笑った。


「っていうか、さっきアイスおごったろ」


「えーあれは、わたしと間接キスっていう特別感が」


「はあ? おごったのはオレだろうが」


「食べなかったのはそっちですー」



 夕日は建物の影に隠れ、夜の町は、人工的な光に包まれようとしている。


 色とりどりな光が降り注ぐ歩道の上を、佐藤と伊藤は歩いていく。


「ちょっと遅くなっちゃったねえ」


「終わってから勉強してたっていえばなんとかなるだろ」


「言ってくれるの?」


「伊藤を怒らせたのはオレのせいだから」


 伊藤が佐藤の方を見る。


「かなでがそんなこと言うなんてめずらしい」


「珍しくなんてないだろ」


「明日は雨じゃないよね? 部活なんだから絶対だめだよ?」


「……明日は晴れだよ。予報によればな」


「でも、予報通りじゃない時もあるよ」


「オレとしては涼しくなるから雨がいいけどな」


「ずっとクーラーガンガンの部屋に引きこもってるくせに?」


「うっせ。それでも、だよ。日の光が見えるだけで暑苦しくってしょうがないんだから」


「そんなんだから見た目とは違うって言われるんだよ」


「それを言ったら、けーちゃんもな」


 佐藤と伊藤は見つめ合って、それから笑う。


 その笑い声は、感情の降り注ぐ街に心地よく響いていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エモーショナル・パレット 藤原くう @erevestakiba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ