バブルガム・ディライト
バブルガム・ディライト その1
図書館を出ると、刺すような夏の日差しが容赦なく佐藤と伊藤に降り注いだ。
エモーショナルパレットというカリキュラムに参加していた二人は、午後になってようやく解放された。
「感情に左右されるって言うけどさ、言うほど左右されてるか?」
そう言ったのは、こんがりと肌を小麦色にさせたいかにも活発そうな佐藤かなで。彼の問いかけに腕を組んで考え込むのは、幼稚園からの幼なじみの伊藤ケイ。
「さあ……。あ、でもわたしは、お菓子を見ると食べたくなっちゃうかも」
「それ、今食べたいだけだろ」
「なんでわかったの、えっち」
「……アイスクリーム屋見てんだから誰でもわかるわ」
「え、見てた?」
目を丸くさせた伊藤が向いているのは、図書館すぐの道路。そこにはアイスクリーム屋がある。EPカリキュラムに参加した生徒たちの考えることは伊藤と変わらないらしく、店の前には列ができようとして
いた。
「ねえわたしもアイス食べたい」
「四十度超えてるけど並ぶか?」
「わたしは平気だけど」
「オレは絶対やだね」
「ええっ。幼なじみが頼んでるんだよ。そこは一緒にって」
「だからなんだよ。暑いとこは嫌いなんだ」
「わたしは別に平気だけど」
「そりゃあ、くそ暑いなか外走ってるやつは違うわな」
「かなでも一緒に走ろうよ。朝から走ると気持ちいいよ?」
「ぜっっったい走らんからな」
えー、と頬を膨らませる伊藤をよそに、佐藤はずんずん歩いていく。その背中から、ちょっと待ってよ、という声がかかったかと思えば、突風のように伊藤が走って佐藤の腕へと抱きついた。
「おまっ、何すんだっ」
「ねえ、お願いっ! 一生のお願いだからぁ」
「これまで何回お願いを聞いたと思ってんだよ」
「……?」
「首を傾げんな。もう十回以上『一生のお願い』って聞いたぞ」
「じゃあ十回なんでしょ」
「…………」
「ああっ待ってよ、もー!」
「っていうか、どこ行くの?」
「別にどこだっていいだろ。ていうか、ケーちゃんこそなんでついてくんだ」
「そりゃあ、幼なじみですから」
「胸を張るな、ない――」
「なんか言った?」
「……なんでも」
「ならよし。どうせ、ショッピングモールでしょ」
「なんでわかったし」
「エロ本だろうなって」
「違うわっ! 消しゴム買いに来たんだよっ」
「あ、そうなんだ」
ため息をつく佐藤の隣で、伊藤が、わたしもシャー芯買おうかな、と口にする。勝手にすればいいじゃないか。呟きそうになって、佐藤は慌てて口に手を当てる。そんなことを言えば伊藤からぐーぱんをもらってしまう。
隣の伊藤に抱きつかれていることを意識しないように、視線を道路へとさまよわせる。
進行方向に、人混みができているのが見えた。
「夏祭りってまだだったよな?」
「八月の終わりだから、まだ半月以上あるね。もしかしてわたしと――」
「いや、そんなことは言ってないんだが。ほら、あそこ。人がたくさんいるだろ」
伊藤はフレームの細いメガネをかけなおし、「ほんとだ。何してるんだろ」
近づいてみると、祭りみたいに騒がしい。いや、それ以上だ。
群れを成した人々は、おのおの看板を掲げて、車道をゆったりと歩いている。そのせいで渋滞が発生し
ていたが、お構いなしだ。
看板には『我々の感情を取り戻せ』と書かれていた。
「抗議デモか」
「なんの?」
「……ニュース見てないのか」
「スポーツ関係しか見てないよ。あ! 100ハーで世界記録が出たってことなら」
「ほんと陸上バカだな」
「えへへ……」
「褒めとらんが。というか、肝心なところ覚えてないな。その女性の選手が、感情誘導剤を使用したって話覚えてないか?」
即座に首を振った伊藤を見て、佐藤はため息をついた。
ことの発端は、先日行われた世界陸上でのこと。100Mハードルで世界記録を更新した選手が感情誘導剤を使用したという容疑が上がっている。感情誘導剤はドーピング扱いされていないが、公式の場で使用されたという記録もない。増幅された怒りによって記録が一秒以上縮まったということもあり、世間を大いに騒がせている……。
「で、彼らは感情誘導剤はどうなんだっていう抗議を今まさにしてるってわけ」
「へー、そうなんだ」
「ま、もともとナチュラリストがいて、今回の一件に便乗してデモを起こしたんじゃないかな」
「よく知ってるねえ」
「時事はテストに出やすいからな。覚えといて損しないんだよ」
「え!? ちょっと佐藤くーん」
「すり寄るな抱きつくな。今度教えてやるから離れろ」
「やった」
「……貸し一つだからな」
デモを横目に歩いていくと、目的のショッピングモールが見えてくる。夏休みに入ったここ数日、いつも混雑していた駐車場も、デモのせいか心なしか車の数が少ない。自動ドアをくぐり、冷房の行き届いた店内も、いつもよりかは人気がない。
「あー涼しい」
言いながら、伊藤は制服の胸元を掴みパタパタ動かして風を送っている。
「おいっみっともないぞ」
「見られて困るものじゃないしー」
「オレが困るんだよっ」
佐藤がもがくが、右腕に絡みついた伊藤の腕は離れない。ふふふーと声を漏らし、伊藤はますます近づいてくる。開いた胸元の奥に真っ白な下着が見えた気がして。
「あー! あっついな!」
「いきなり耳元で叫ばないでよ……」
「じゃあ離れてくれ、今すぐ」
「えーイヤだよ」
「わかったアイスおごるから」
「しょうがないなあ。トリプルだよ?」
「シングル。糖質制限してるんじゃなかったか」
「チートデイだもん。だからトリプルでお願いしまーす」
言うなり、するりと腕を離れた伊藤は、アイスクリーム屋へと駆けだしていく。
小さくなる背中を見ながら、佐藤はため息をついた。
どうして、べたべたくっついてくるのだろう。幼なじみである彼女の考えることが一ミリも理解できない。
「もしかして、徐々に金額を上げていくつもりなんじゃあ」
佐藤の頭に浮かぶのは、スパイクシューズをねだってくる伊藤の姿。その手に握られたシューズはウン十万。想像するだけで、佐藤は震えあがった。
「かなでーなーにやってるのー?」
「わ、わかったから、叫ぶなっ」
佐藤は慌てて声の方へと駆けだす。
届いてきたアイスは一つだけだった。正確には、一つのカップに入っていた。
「確かに三つ入ってるからトリプルだな」
「でしょ? 約束は守りますから、わたし」
「オレのは?」
「そこにあるじゃん」
「……けーちゃんのは?」
「そこにあるじゃん」
「あー、アイスは一つしかないように見えるんですがねえ」
「スプーンは二つあるよ?」
「…………全部やる」
「もったいないよ。一緒に食べよ」
「なんで、一つのアイスを分け合わないといけないんだ。これじゃ――」
佐藤の言葉が止まる。伊藤が首を傾げる。
「これじゃ?」
「な、なんでもない! とにかくオレは食べないったら食べないからなっ」
佐藤はそっぽを向く。彼の耳に、そっか残念、という伊藤の声が聞こえてくる。そっと隣を見れば、しずしずとアイスを口へと運んでいる。
佐藤と伊藤の目があった。
「そう言って、やっぱり食べたいんじゃないの?」
「なあ」
「なに?」
「どうしてオレに構うんだ?」
「そりゃあ」
アイスを運ぶ伊藤の手が止まる。スプーンから溶けかかったアイスのしずくが、ぽたりと落ちた。
「――幼なじみだからねー」
「だからってこんなべったりくっついたら、か、カップルみたいだろ」
「カップルのつもりはないけどなあ」
佐藤は周囲をきょろきょろ。アイスクリーム屋の狭い席では、多くの客がアイスに舌鼓を打っている。
一部は何やら不機嫌そうに佐藤たちの方を見ており、佐藤と視線がバッティングすると、舌打ちした。佐藤が肩をすくめていると、彼らの表情の憤怒の表情が一瞬にして無表情へと切り替わる。リア充へと向けられた怒りが許容値を越え、脳内のチップによって沈静化させられたのだ。
それを見ていた佐藤が言う。
「今日見た物語あったじゃん」
「んー?」
「マッドブラッシュって、あれさ、ノンフィクションって先生言ってたけど、実際のところどうなんだろうな」
「どういうこと?」
「いや、最近つくられた物語なんじゃねえかなって思っただけ」
「ふうん。わたしにはよくわかんないや」
伊藤はアイスを次から次にすくっていく。その早さは、味わっているというよりは、すぐにでも食べてしまわなければならないという使命感に追われているような感じさえある。
「おい。そんなに急いで食ってたら頭が――」
「うわーん! 頭がキンキンするぅ!」
「……言わんこっちゃない」
「かなで、わたしを抱きしめて……」
「やだよ。ってか、もう抱きついてんだろ」
「もっと体温が伝わるくらいに」
「やめろ。それ以上くっつくなっ」
周囲からの視線を痛いほど感じながら、佐藤は顔をくっつけようとしてくる伊藤を押しのける。
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