メランコリック・ブルー その2

 火災の際の上昇気流によって舞い上がったメランコリックブルーは、風に乗り、上空へと運ばれていった。普通ならば、それで終わりだった。少なくともひと月の自殺者が千人を超えるなんてことは起きなかったはずだ。


 メランコリックブルーが長崎に――長崎上空に雨雲が存在していたことは不運だった。化学物質は雨粒へと溶け、灰色の街へと降り注ぎ続けた。雨粒に吸収されたため、大気中を漂った場合と比較すれば被害は少ない方だ。そう考える科学者もいるが実際のところはわからない。分かっているのは、雨というのは元来うつを引き起こしやすく、それがメランコリックブルーの効果を強めたのではないか、というくらいだ。




 昨日、雨に打たれたのがよくなかったのだろうか。


 頭が重い。


 何もしたくない。


 とにかくだるい……。


 体は重力か体重が増してしまったみたいに重くて、起き上がるだけでも一苦労。何も食べる気にはならなかったし、そもそも、そんな時間もなかった。――必修科目の時間まで三十分もなかったのだ。いつもなら、もっと早く起きられるのに。体温を測ってみても熱はなかったので、大学に向かう。


 友人たちも、何人かひどい顔をしていた。一昨日、人数合わせとか何とか言って私を乱交パーティに招待したやつなんか、寝不足か精を出し尽くしてしまったからなのか、世界の終わりみたいなやつれ切った表情をしていた。


 そんな表情を見てしまうと、私の気持ちはますます暗くなった。


 ――顔が暗い奴は、じきに自殺する。


 誰も口にはしないけれども、巷にはそんな空気が漂っていた。実際、能面みたいな顔になった人のほとんどが自殺している。うつ病患者が増加したという話も聞く。気象庁によれば雨のせいらしい。そんなの誰だってわかってる。知りたいのは、どうして青い雨が降るのかってこと。


 私は薬学部の生徒で、成分調査のために必要な機器は揃っていた。だけど、やる気が出ない。そもそも授業だって、ろくに聞いていられない。ぼーっとするな、という教授の言葉すらぼーっとしていて聞いておらず、教授から熱でもあるのかと心配されてしまうほどであった。


 気がつけば、講義が終わっていた。というか、講堂に誰もいない。いや、隅っこの方から、私を見つめてくる視線があった。


「……那奈」


「っ」


 小さな呟き声であっても、静寂に包まれた空間にはよく響いた。那奈は、飛び上がるように驚き、おどおどと体を揺すぶる。


 私は小動物みたいに怯えている彼女へと近づく。逃げようとした彼女の肩を掴む。


「な、なんですか」


「そっちこそ、私を監視してるつもりなの」


「そそんなわけじゃないですっ。ただ、顔色が悪そうだったので心配で」


「私のことは放っておいて」


 消え入りそうな声が背後から聞こえてきたけども、私は無視して講堂を後にした。



 プチ反省会なるものを私はよくやる。


 狭い浴槽で膝を抱え、今日はこれこれこういうことをしたけど、よくなかったなあ。こんな返しができたんじゃないだろうかって、自分の行いを反省する、よくわからない習慣だ。


 その中に、失言ランキングなんていうものがあるとしたら、那奈へぶつけた発言は殿堂入りだろう。


 後悔と申し訳なさに苛まれる体を口まで湯船に浸らせる。ため息が、泡となって出ていく。


 私もこうやって泡になれたら。


 頭まですっぽり水の中に入ってしまえば――。


 そうしてしまえば、私はこの世からいなくなってしまうと気がついたのは少ししてのこと。慌てて浴槽

を飛び出した。服も着ず、全裸で。


 私の部屋は、大学近くのアパートを借りている。壁の薄いありふれたワンルームだ。部屋に置かれているものも普通だと思う。友人も、そんなことを言っていた。


 普通。


 良くもなければ悪くもない。毒にも薬にもならないってことで、それってつまり、いてもいなくてもいいってことだ。


「――死にたくなるね」


 近くに包丁やロープといったものがないのは幸いだった。窓に近づいて、ベランダへと出てみても、そこは一階。飛び降りることもできやしない。夏の熱気から逃げるように部屋の中へ。


 重い体をベッドへと横たえる。温まった体が、冷房によって冷やされていく。自殺するのが怖くて、タオル片手に飛び出したっきりだったから、ろくに拭いてもいない。今考えると、ほぼほぼ全裸で外へと出てしまったんじゃなかろうか。……ますます死にたくなってきた。


 テーブルに置いたスマホが振動する。電話がかかってきてるのは分かるんだけど、起き上がるのが面倒くさい。距離にして一メートルもないのに、歩いていくのが億劫。


 バイブレーションのせいでスマホがつるつる滑っていって、止まった。


 電話をかけてきた誰かは、私が出るのを待っていられなかったらしい。


 ため息がこぼれた。


 出なきゃだったのに。


 友人たちからだったらどうするんだ。


「あーあ」


 これまでのことって何だったんだろ。


 私の人生って一体何だったんだ。何の価値があった? ニコニコ笑みを張り付けて、人の言うことに従って。


 普通ってみんな言うけど、普通ってなんなの。


 意志薄弱の中途半端な奴か。――私みたいな。


 自分自身にムカついたけれど、その感情はあまりに小さくて、無気力感に覆いかぶさられて消えてった。




 感情兵器の対抗策は非常に少ない。確かに、哀しいという気持ちを誘発させるメランコリックブルーに対抗して、喜びの感情を誘発させるディプレゼを投与したら効果はあるだろう。だが、ディプレゼの効果は一時的なもので、根本的な原因を解決しなければ躁鬱の波が出来上がるだけだ。長期間感情を操作するのは、脳の機能に損傷を与える可能性だってある。


 自殺者を減らすためには、雨が上がるのを待つしかない。


 政府にはどうすることもできず、それゆえに隠蔽工作は行われたと考えられる。




 死のう。


 肉の塊を動かして、どこか楽に死ねる場所へ。


 行く当ては思いつかなかった。


 まずは扉を開けて――。


 もたれかかるように扉を開けた先に、人がいた。


 夏の夜の熱気のただなかに立っていたのは那奈だった。


 那奈の隣を通り過ぎていこうとしたら、腕を掴まれた。


「じ、自殺するつもりなんですか」


「だったらどうだっていうの」


「自殺する方法なら、わ、わたしたくさん知ってるから」


「教えてくれるの」


「お、お手伝いできますよ」


 那奈を見る。彼女は、私のことを見上げてきていた。その瞳は、夜露にまみれたみたいに濡れていた。見ているだけで、吸い込まれそうになってしまうような。


「うちに来ませんか。前来たに見たかもしれないですけど、うち、自殺のための道具だけはたくさんあるんです」


 はにかみがちに那奈は言う。前来た時のことを思い出す。酔った勢いでセックスしてしまったあの時のこと。青酸カリだという瓶に入った錠剤。人を殺す方法がまとめられた本。


 それらは、つい先日のことだっていうのに、ずいぶんと昔のことのように感じられた。


「……わかった」


「じゃあ、手を、繋ぎませんか」


「どうして?」


「迷子になってしまわないように?」


 私が何かを言うよりも先に、小さな手が、私の手をぎゅっと握りしめる。私の手を離すまいとしっかりと。


 手を振りほどきはしなかった。それすらも億劫だったし、伝わってくるひんやりとした熱が心地よかったから。


「い、行きますね」


 私は小さく頷く。そっと、那奈は歩きだし、私はそれに続く。


 アパートの廊下を出て、道路へ。


 ぼんやりしているうちに、街は夜のとばりに包まれていた。夏の熱気は相変わらずだったけど、人気という意味では、以前よりも少なくなっている。自殺者が増えたことで、街には重苦しい空気が漂っている。


 人の往来の少なくなった街は、いつもよりも不気味に見える。


「夜歩くの」


「気持ちがいいので」


「危ないよ。物騒になってきたんだから」


「心配してくれるんですか?」


「…………」


「ありがとうございますっ」


「別に……」


「あの。い、意外と襲われないですよ」


「何が?」


「夜歩いてても、だれもわたしのことを殺そうとはしませんでしたから」


「襲うってそういうことじゃなくて」


「ほかに何が……?」


 梅雨に入ってからの犯罪発生率自体は上がっているどころか下がっているまであるんだけど、大学にいる感じでは、犯罪を行う生徒は確実に多くなっている。那奈と出会ったあの夜だって、ドラッグに興じるやつはいた。薬物が簡単に手に入るのはどういうわけなのかわからないけども、確実に治安は悪くなっている。傷害事件、強盗事件等々、他者に危害を加える事件は少ないながらもその数を増やしているとか。


 みんな、死ぬことが怖いんだ。怖いから、自分がしたいことをして、恐怖から逃れようともがいている。


 快楽に溺れたら、自殺なんてしないかのように。


 この真っ青な雨が降る街では、人は簡単に自殺してしまう。


 いつ死ぬかわからない。


 そう思えば、闇夜の中で煌々と光を放つ街から色彩が失われていく。すべてがどうでもよくなって、歩くのも面倒くさくなって。


 私はしゃがみこんだ。これ以上動きたくない。歩きたくない。


「もう殺して」


 私の呟きは、降り始めた青い雨に紛れて消えていく。地面を打つ雨粒は、次第に強く、大きくなっていった。すぐに、周囲は青いスクリーンがかけられたみたいになった。


 冷たい雨が、私を叩く。芯の芯まで冷えていって、哀しくなる。


 このまま、死ねたらいいのに。雨みたいに地面へ吸い込まれて、どこかへ消えていけたら。


 価値のない私なんて、消えてしまえたら――。


 腕を引っ張られた。その強い力に、私は立ち上がらせられる。


 私の腕をつかんでいる那奈は相変わらずおどおどとしていたけれど、その瞳には強い光が点っている。


「わたしは殺しません」


「……どうして殺してくれないの」


「それじゃあ、自殺したことにならないです」


「殺してよ!」


「ううん。ダメです。わたしはヒトは殺しません。みんな、勝手に死ぬだけです。――わたしも含めて」


 にっこりと笑って那奈は言う。




 メランコリックブルーが哀しいという感情を誘発することは前に述べた。そうすることで、多くの人間をうつ病にする。現に、その年の長崎は、うつ病患者が爆発的に増え、そして、自殺者が増えた。


 その一方で、うつ病にかかっていた人々は、何も変わらなかった。快方へ向かうことはあっても悪化することはなかったのである。理由は未だにわかっていない。ただ、負の感情に慣れていたことが、要因の一つなのではないかと考えられている。




 那奈の部屋は、前と変わっていなかった。


 がらんどうのワンルームの真ん中にローテーブルが置かれ、その上に、さまざまな瓶が置かれていく。


「これが睡眠薬で、こっちは青酸カリ、この赤いのはテトロドトキシンで、これはアピトキシンだったかな」


 瓶だけでテーブルは埋め尽くされてしまいそうだったが、さらにクローゼットから、那奈は様々なものを取り出す。


 ナイフ、包丁、注射器に、SとかLとかアイスとか書かれた怪しげな粉末と錠剤、真っ白なキノコ、赤いキノコ、トリカブト、ロープ、拳銃。


「道具を使いたいなら、使っていいよ」


「……どこで手に入れたの」


「秘密です。でも、足はつきづらいので安心してください」


 ちっとも安心できない。


 銃を手に取る。モデルガンかエアガンと思ったけども、持ってみるとずっしりとした重みを感じた。その光沢感はまぎれもなく本物。ほかのものからもただならぬものを感じるから、たぶん、自殺するにはうってつけのものばかり揃っている。


「どうしてここまで……」


「自殺するためです」


「それはわかるけど」


「手伝う理由ですか? それはもちろん、友達だから」


「じゃなくて。道具を集めてる理由」


「自殺するために決まってるじゃないですか」


「しないの?」


 私が聞くと、ナイフを弄んでいた那奈の手が止まった。ずっと聞いてみたかった。死にたいと――自分を殺したいと言ってるにも関わらず、どうしてそうしないのか。いつだってできたはずだ。その覚悟だって。


 那奈が顔を俯かせる。鈍く輝くナイフの表面に映る顔は、くしゃりと歪んでいた。


「……できなかったんです」


「できなかった?」


「みんなが自殺しはじめちゃったから」


「むしろ、やりやすいんじゃないの。みんなしてるんなら、怖く――」


「怖いとか怖くないとかの問題じゃない! みんなが自殺してたら、特別じゃなくなっちゃう」


「特別……」


「わたしだけが自殺するからよかったの。それなのに、みんな自殺し始めるだなんて、そんなの考えてなった!」


 那奈がこぶしを握り締める。あまりにも強くて、血が流れだしてしまわないかと、見ているこっちが心配になってしまう。


「特別になりたかったの……」


「なりたいに決まってます。誰にも相手にされてこなかったんだから。自殺をすれば、嫌でも目立ちます。――だから、一番目立つ方法で死んでやろうって思ってた。なのにあの雨のせいで」


 窓の外へと、鋭い視線が向けられる。窓へと叩きつけられる雨は、その勢いを強め、鼠色の雲では稲光がごろごろと鳴り響いている。


 自然は、那奈が睨みつけているのなんか知らんぷりで、雨を降らせ続ける。今や、この世の罪を洗い流していくんじゃないかって勢いで降っていた。


 ごろごろと鳴り響いていた雷が、空を切り裂き、街へと墜ちる。


 空を真っ白に染め上げた大きな稲光。照らされた那奈の顔は悲壮に満ちていた。


 私は何かを言おうとしていた。一緒に自殺しようとかなんとか。でも、彼女の表情を見た途端に、考えていたことはすっかり吹き飛ばされた。


 那奈が哀しそうな表情をするのを見たのは、これが初めてのことだった。


 一人で大学の門をくぐっているときも、一人で講義を受けているときも、一人で昼食をとっているときも、サークルにも入らず一人で下校しているときも、あんな顔をしたところを見たことはなかった。


 ――ああ、そっか。


 そんな那奈を、私はかわいそうだと思っていた。


 確かにかわいそうだったかもしれない。でも――私よりはずっと。


 人と一緒にいて、首を縦に振るだけの私なんかよりはずっといい。


 私は、テーブルの上のすべてのものを払いのけた。ガチャガチャと音を立て、何もかもがごちゃ交ぜになって、ものの少ない部屋に山を築く。


 そうして何もなくなったテーブル上に身を乗り出す。


 那奈は口をぽかんと開けて、驚いていた。


 その可愛らしい口めがけて私は、私の唇を近づける。




 目を覚ます。


 隣には裸の那奈がいた。


 うん、前も見たな。


 腕をそっと、動かす。手錠はかけられていない。そんなハードなことはしていないし、はっきりとその時のことを思い出せる。


 前は酔った勢いだったけれど、昨夜は違う。


 私は自らの意志で那奈を求め、那奈はそれに応じてくれた。


 これでよかったのだろうか、という疑問がよぎらないわけではなかった。私は同性愛者というわけではなかったし、いやそもそも論、恋愛というモノを知らない。知っているものといえば、同人誌とか発禁BL漫画から得た知識しかないわけで、それってつまり何も知らないのと同じってわけ。


 誰か、教えてくれないか。


 この胸の中で渦巻くほのかな感情が愛というものなのか、否か。


 ううん、という声がした。私が腕を動かしちゃったせいで、那奈を起こしてしまったらしい。


 彼女の顔には驚きはなくて、まどろんだ瞳と、幸せそうに緩んだ口元があった。


 頭をなでると、すきです、と那奈は呟いた。


 そう言ってもらえるなら、私もうれしい。心がキュンキュンして、いてもたってもいられなくなる。もしかして、これが恋……?


 顔が熱い。今の私の顔はきっと那奈と同じ顔をしているに違いない。すごく恥ずかしい。見られたくない。


 顔を背けると、窓が見えた。


 朝焼けの広がる空には、七色の虹がかかっている。

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