メランコリック・ブルー

メランコリック・ブルー その1

 メランコリックブルーと呼ばれる感情兵器がはじめて使用されたのは、西暦3014年。北極条約によって規制される三年前のことである。


 きっかけは一つの事故だった。


 米軍基地で起きた、不注意による火災。そのさなか、黒煙とともに舞い上がったメランコリックブルーは、大気中の水分と結合し、雨となって街へと降り注いだ。


 絵具を溶かしたみたいに真っ青な雨は、あまたの自殺者を生み出したとされる。感情を操作できるディプレゼ類似物質によって、負の感情が刺激されるようになっていたのだ。うつになった人々は、無気力状態を呈し、最後には自殺した。


 その一人になっていたかもしれないと思うと、今でもゾッとする。




 目覚めたら私は那奈の家にいて、彼女と枕を共にしていた。


 隣で眠っている彼女の小さな体にはシーツがかけられていたが、少なくとも見える範囲では何も着ておらず、私も同様だった。ベッドの近くには、今の私と那奈みたいに絡み合った服が散乱していた。


 汗とアルコールが混じった臭いが、鼻孔を刺激した。


「記憶もどこかにないかな」


 頭が痛かったのは、飲み会で飲まされたアブサンとかいう怪しげなお酒のせいだと思いたい。


 私はそっと、ベッドを降りようとした。だが、手首にかけられたプラスチックの手錠が私を引き止めた。


 手錠のもう片方は、那奈の手首につながっていた。私の手首も、彼女の細い手首も手錠のせいで赤くなっている。よほど寝相が悪かったのか、激しい運動でもしたのか。……たぶん後者。


「ねえ。起きて」


 那奈の肩を掴んで揺り動かす。ううん、という声とともに、閉じられていたまぶたが開く。


 パチパチと開いたり閉じたり。真っ黒な瞳が、これでもかと大きくなる。


「か、寒崎さん?」


「そ。寝起きのところ悪いんだけど、これ、見覚えある?」


「手錠?」


「いやまあ手錠だけどさ。私、つけた記憶ないよ」


「わたしもです、っていうかあの、ふ、服は……」


「そこに転がってるよ。あ、下着てないからね」


 私が言うと、那奈は毛布の下をのぞき込む。直後、「うええっ!?」という驚愕の声が上がった。その拍子に毛布がめくれ、那奈の下半身が露わとなる。何も身に着けていないかと思いきや、白い靴下だけが残っていた。こんなわけのわからない状況でも、胸が高鳴ってしまう自分が恨めしい。というか、私が指示したような気がする……。


 思い出そうとすると、二日酔いの頭が、ガンガンと痛む。


 昨日のことはよく覚えていない。みんなで酒を浴びるように飲んで、大変な騒ぎになったのは覚えている。現実逃避のように酒を飲み、めくるめく快楽のるつぼへ……なんて考えていた私は、なぜか放置された。そこここで嬌声が上がってるっていうのにである。私にも現実逃避させてくれよ。いつ死ぬのか――自殺してしまうのかわからないのは私だって一緒なんだぞ。


 酔った勢いのままにそんなことを叫んだような気がしないでもないけども、ズボンを下ろした若い紳士淑女は真剣そのもの。腰を振るのに夢中で、一人ぼっちの私の話なんか誰一人として聞いちゃくれない。


 しょうがないので、ビールをラッパ飲みをしていた。


 と。


 栓抜きを探していたら、私と同じように、所在なさげにしているやつを見つけた。手にした錠剤をためつすがめつしていた彼女こそ、那奈である。


 正直なところ、その先はあまり覚えていないというか、思い出したくないというか。断片的な記憶をつなぎ合わせて物語を紡ぐとしたら、酔っぱらった私は那奈に絡み、酒を飲ませたってところだろう。……私だって相手が欲しかったんだ。


「そこまでしてセックスしたかったのかね、私は」


「な、なんですか。わたしたちってそういう関係に……?」


「たぶん、恐らく。っていうか、覚えてない?」


「えっと。部屋に押し入られたのは覚えてるんですけどぉ」


「私はそこすら覚えてないよ。……マジでごめん」


「あ、謝らないでください。知らない人を家に上げたわたしにも問題がありますし」


 それに……。


 呟きながら、那奈が私のことを見てくる。顔から胸にかけて、それから脚へ。視線がくすぐったい。


 最後に、私の目を見つめたかと思ったら、シートをぎゅっと抱きかかえて。


「友達になってくれませんか」


 はあ?


 この子はどうかしているのだろうか。


 酒の勢いで、悪気はなかったと私は話した。そうは言ったが、嘘かもしれないとは考えなかったのだろうか。そうじゃなくても、酒癖の悪いやつには絶対近寄りたくない。少なくとも私はそう思うのだが、那奈は違うらしい。


 はっきり言って、異常だ。あるいは、突発的に自殺してしまうような世の中においては、こういう子も普通なのかも。


 とかなんとか考えていたけども、そんなことは建前も建前である。


 私も、この世平那奈という同級生に興味を抱きはじめていた。もちろん、靴下しか履いていないから、というわけではない。


 よどんだ目をした同級生たちとは違う感じがした。目の輝きはあるんだけど、不気味っていうか。


 なんというか、すごく不思議な子だ。


「え、えっとあのう」


「あーうん。友達になろう、うん」


「よろしくお願いします!」


 ぶんという音が聞こえてきそうなほど勢いよく、那奈の頭が下がった。気合の入った返事が面白くて、私は笑ってしまった。




 『長崎は今日も雨だった』という歌詞ががあるように、斜面に面したこの街にはよく雨が降る。梅雨ともなればなおさらで、歩けば雨と紫陽花によく遭遇する。


 ただ、その年は青い雨が降った。


 誰だって今年は異常だと思った。夏は、アスファルトが解けるかもしれないと考えたし、人によっては黒い雨を連想した。後者に関しては、人体に対する悪影響という意味では大体あっていた。


 大学、あるいは気象庁が隠蔽していたデータによれば、ディプレゼ――感情誘導剤の一種だ――に酷似した成分が含まれていたそうである。雨に含まれていた成分とディプレゼの相違点から、喜怒哀楽の哀を感じやすくなったのではないかと推察されているが、真相ははっきりしていない。


 ただ、その年における梅雨の自殺者数はすでに千人を超えていた。




 窓へ降り注ぐ雨は、ケミカルな青色をしていた。


 シャワーを借りた私は服を着替えて、窓の外を眺めていた。一線を越えてしまったとはいえ、ずっと裸でいるわけにもいかないし、汗やらなんやらで体はべとべと。気持ち悪いったらなかったから。シャワーを快く貸してくれた、ここの家主は今、シャワーを浴びているのでここにはいない。


 私はベッドに腰かけて、部屋を見渡す。


 ワンルームの部屋は整理整頓が行き届いている。私の姉なんかは、それはもう、足の踏み場もないひどい有様なんだけども、ここにはゴミ一つ落ちていないのではないかってくらい、隅々まで綺麗だ。


 ゴミもなければ、家具もない。


 あるのはベッドとテーブル、ちょっとした棚。あとはクローゼットが奥に見える。そこに何か入ってるのかもしれないけど、流石にそこを無断で覗くのは気が引けた。


「だからってこうやって待ってるのもね」


 スマホをいじくって時間をつぶすって手もあった。だけども、この何もない部屋で何かを探すっていうのも面白そう。


「ねー。棚に何があるか見てもいいー?」


 困惑の声と、痛みにうめくような声が浴室の方から響いてくる。ちょっと申し訳ないことをしちゃったかもしれない。


「瓶の錠剤は絶対に飲まないって約束してくれるなら……」


「そう言われると気になっちゃうなあ」


「飲んだら死にますから」


「…………」


「き、聞いてますかもしかしてもう飲んじゃったとか」


 ガチャって音がして、音がクリアに聞こえる。遠くでザーッと水が流れ落ちる音が聞こえる。雨の音というよりはシャワーの音。


「いや、びっくりしただけだから、来なくて大丈夫」


 扉が閉まる音がする。こうでも言わないと、全裸でやってきそうだから怖い。


 しかし――死ぬねえ。


 棚には水玉模様の布が掛けられていて、中が見えないようになっている。のれんのように腕で押しのける。中には、いくつかの本と瓶があった。


 瓶を手にとってシーリングライトに透かせば、透明な瓶の中の錠剤がよく見える。何の変哲もない錠剤のようだけど、それにしてはラベルが貼られていない。


 蓋を開けると微かにアーモンドの匂いがした。


 すぐに蓋を閉めた。


 これって、あれじゃないか。青酸カリってやつなのではないだろうか。アーモンドプードルではなく劇薬のことが思い浮かんでしまったのは、薬学部の学生だからっていうのもあるかもだけどさ。どうにも、那奈のセリフが気にかかる。


 アーモンド臭で死ぬって言われたら、ねえ?


 瓶を元の場所に置く。そうなると、他の瓶も怪しく見えてくる。カラフルな錠剤は一体どのような成分からできているのだろう。


 本を手に取って題名を確認してみる。


『サルでもわかるヒトの殺し方』


「……誰か殺したい人がいるの?」


「殺したいのは自分です」


 水音まじりに聞こえてくる言葉からは、那奈の想いはくみ取れなかった。



 それ以前にも、那奈を見たことがある。向こうはどうだかしらないけども、同じ薬学部生だし、一緒の講義を受けているから、顔くらいは知っていた。見るたび一人でいたことは覚えている。別に、他人がどのような大学生活を過ごしてもいいとは思うけども、ちょっと寂しそうだな、とも思っていた。


 思いながら、那奈に話しかけるようなことはしなかった。


 いっつも黒のロンTにパーカー、それからぴったりと脚を覆うパンツ。ありふれた格好。俯きがちな顔は陰に隠れ、根暗な印象をより一層強めている。だからこそ、みんな話しかけなかったのかもしれない。


 そう考えると、昨日はどうして飲み会――という名の、死ぬ前最後のいかがわしい催し――に来ていたのだろう。


 いつもと同じ格好をしている那奈へと、問いをぶつけてみる。那奈は血色のよくなった顔を、さらに真っ赤にさせた。


「えっとそのう。恥ずかしいんですけど」


「や、もしかしてそういう趣味?」


 無口でおとなしそうな子が実は性に奔放。うん、同人誌的にはありがちな設定だ。私も何度かネタにしたことがある……とはいえ実際にあったのははじめて。


「なあんだ。てっきり、強引に連れてこられたのかと思ったよ」


「とんでもないです! あの場所で死んだら、みんなの記憶に残るかなって思ってそれで……」


「へ? 乱痴気騒ぎを楽しみにしてたんじゃないの?」


「ら、らんちき? わたしは酒に睡眠薬を入れて永遠の眠りにつこうと」


 あ、そう。


 なんか拍子抜け。つまり、亡くなってしまった人たちと同じように、自殺したいってことじゃないか。その方法が、飛び降りとか、入水とか、首吊りよりも手間暇がかかっているだけで。


 それって、今雨のせいで自殺してるみんなと何も変わらないってことじゃん。


 そう思うと、先ほどまでの興味が嘘のように引いていった。


 かけられていた魅了の魔法が解けてしまったみたいに、目の前にいる那奈が平凡な少女にしか見えなかった。


 那奈は睡眠薬のこととか、持ってきたお酒のことを話していたけれど、私は全く聞いちゃあいなかった。


 ベッドから立ち上がると、スプリングが軋んだ。


「もう帰る」


「でも、外、雨降ってるけど」


「もう小雨になってるし、コンビニで傘買うから」


「待って、傘くらいなら……」


「別にいい」


 その言葉は、思っているよりも強く飛び出していった。那奈の目が大きくなって、それから小さくなった。申し訳なくなったけども、謝罪するのも躊躇われた。


「また、来てくれる?」


 消え入るような那奈の言葉が、私にまとわりついてくる。それから逃げるように、私は玄関へと向かう。


「気が向いたらね」


 言葉をかき消すように、勢いよく扉を閉めた。



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