ミモザ・シンパシー その2

 BSTの技術は、その時代ではとっくに失われており、BSTの作り方を知っている人間はいなかった。ヤクモは、膨大なネットワークにアクセスして、堆積したデータをあさるほかなかった。地道で気の遠くなるような作業。


 最終的には、ノアの箱舟計画という移住計画までさかのぼることとなった。人類史上最大のバカげた計画と呼ばれるそれは、今はなき国連のでっち上げだと世間一般的に思われていた。だが、実際に行われたことである。


 ノアの箱舟計画の立案書にはBSTの製造方法が書いてあった。当時の最先端技術でつくられたものだったが、数世紀も経過してしまえば、個人でつくることが可能なレベルだった。唯一の課題は、脳に埋め込むほどの技術を持ちながら、倫理的問題を踏み越えられる脳外科医だったが、ヤクモは一千万円で何とかした。


 感情がなくなるかもしれない実験を自らに課そうとしているヤクモにとっては、一千万円など、はした金のようなものだった。


 そうしてBSTを埋め込んだヤクモは、はた目から見れば何も変わっていなかった。彼自身の体感でもそうだったし、手術した脳外科医さえもそう思っていた節があった。


「無意味なことをしたものですな」


「かもしれませんね」


 短いやり取りが行われたことを、年老いたやぶ医者が証言している。このことからも、ヤクモが半信半疑になっていたことがわかるというものだ。


 だが、実際に感情に揺り動かされた途端、脳の中のチップは反応した。


 ヤクモは、全米が泣いた、という仰々しい惹句がなされたラブストーリーを見に行った。一時間と半分が過ぎたところでやってきたクライマックス。感動的な場面で流れ落ちようとした涙の一滴は、すっと引っ込んでいった。


 なにが起きたのか、ヤクモにもわからなかった。ただ、胸の中に浮かんでいた深い哀しみが、一瞬にして洗い流されてしまった。すっきりとして、一方では喪失感を抱いてしまう奇妙な感覚だった。


 これが、BST。


 早速、ヤクモは実験を行うことにした。BSTは脳内物質の変化によって感情を数値化しているのだから、怒りや哀しみのパラメータをリセットされるところまで持っていかなければならない。脳の変化がわかるようにヘッドセットをかぶり、日がな一日、スポーツ観戦あるいは少女漫画を見ていたと言われている。涅槃のような態勢でポテトチップスに手を伸ばしている姿を撮った写真は、貴重な資料である。


 そのようにBSTというツールを用い、ヤクモはSLSの正体へと迫っていった。同時に、彼の感情がBSTによって食い物にされていった。


 その事実に、ヤクモが気が付いたのは、映画を見ていた時のことであった。


 それは、ありふれた大衆映画だった。芸術性などはなく、ただ、観客を喜ばせるためにつくられたチープなもの。だからこそ、そこにはどきつい演出があり、笑うことができたし、こぶしを握り締めた。何かを成すために死に向かう主人公に哀しみを覚え、同時に世界が救われたことに喜ぶことができた。


 少なくとも、数週間前まではそうだった。


 だが、今ではそうではなかった。


 誰が死のうが、だれがキスをしようが、友情を確かめようが、心の中は凪いでいた。いや、そもそも、なにもなかった。なくなってしまった。


 ヤクモはリモコンの停止ボタンを押した。これ以上視聴を続けても無駄だと思った。


 真っ黒になったテレビには、ヤクモの顔が映っている。その顔は能面のように、感情に乏しい。だが、その表情にすら恐怖は感じなかった。


 SLS発症者は、こんな気持ちなのか。


 心にぽっかりと穴が開いたようだ――と、ヤクモはその時の感情を記録している。


 ヤクモはじっとしていた。どうして頭にBSTを埋め込んだのか、わからなくなってしまったのだ。



 自分はSLSの治療法を探して、頭にチップを埋め込んだ。


 ヤクモがそれを思い出したのは、翌日のこと。けだるけに体を起こし、数分の間考え、それからやっと立ち上がる。


 パソコンへ向かえば、ヘッドセットから、脳のデータが送られていた。


 データは、感情が徐々に消失していき、無気力状態にいたる現在までが克明に記録されていた。データが示しているのは、その一連の流れと、SLSの進行度が一致していたことくらいだ。それは、実験をする前から予想できていたこと。


 ヤクモはトントンと頭を叩く。動くはずのないチップが、カラカラと動いているような気がした。


「そうだ」


 MSTが何か記録しているのではないか。この一センチ四方の小さなチップは、脳と接続され、脳がどう動いているのかを記録している。しかも、そのデータはWI-FIによってやり取り可能だった。いささか古い無線規格ではあったが、用意できないものでもない。


 一か月を要して、準備が完了した。


 MSTのデータを骨董品のルーターからPCへと転送。作業進行具合を表すバーを、何も言わずにヤクモは眺めていた。


 ピロンと転送が完了したことを告げる音が鳴った。


 データは非常に重い。感情の起伏と、それに合わせて変動する脳内物質とその量が記録されている。


 ヒマラヤ山脈のようにギザギザな折れ線グラフを食い入るように見つめる。


 日が傾き、夜になり、朝となった。


 外ではスズメが鳴き始めるころになって、ヤクモは我を取り戻した。というよりは、やっと集中の糸が切れたといった方が正しいだろう。そうでなければ、ずっと考えていたに違いない。


 グラフには、感情がリセットされる部分がわかった。その部分だけ、特定の脳内物質の量が急上昇あるいは急降下するのだ。つまり、その脳内物質を操ることができたら、感情を操作できるのではないか。


 ヤクモは立ち上がり、本棚へと向かい、本を読みふける。体は空腹を訴えてはいたが、我慢できた。怒りも悲しみもないために、空腹を単なる生理現象として受け流すことができた。


 その結果、ヤクモは倒れた。


 何日も研究室にこもっていたヤクモを案じた同僚が、倒れたヤクモを発見したことで、一命を取り戻した。栄養失調と過労と診断された。


 それでもなお研究を続けようとしたヤクモは、病室に一か月あまり拘束された。


「患者の僕は何も感じていないっていうのに、どうしていけないんだ?」


 そのようなことを骨と皮しかない顔を傾け、医者へと放ったこの言葉はあまりにも有名だろう。その後、嫌がらせとばかりに、テーブルに呪いめいたものを書き残していったとされているが、これは間違いだ。感情を失っている人間が嫌がらせをするわけがない。


 そのテーブルをオークションで競り落として確認したが、象形文字のような癖のある文字と少なくない経年劣化があり、正確なことはわからない。エンドルフィンやアドレナリンという単語から察するに、化学物質の配分をメモしていただけなのではないか。


 とにかく。ヤクモは退院し、そして、薬を完成させた。


 脳内で分泌される化学物質を疑似的に再現し、感情を誘発する薬。これこそ、SLS特効薬ディプレゼである。製薬会社によってそう名付けられることになるその薬にはまだ名前はなく、誘発される感情は喜び以外にもあったが、それは未来のお話。


 ヤクモは、できたばかりのカプセルを手のひらで転がす。


 いざ薬が完成し、ミモザ色のカプセルを眺めていると、一つの疑問が浮かび上がってきた。


 どうして、この薬をつくっているのだろう、という問いかけ。


 それは、ここ数日――いや、もしかしたら、もっと前から――ヤクモの頭の中の半分を占めていた難問だった。考えても考えても答えは出せない。灰色になってしまった心と脳には、そういった、感情的な理由は残っていないようにみえた。


 ――みんなが困っているから、SLSの治療薬を求めているから、僕は研究をしているのだろう。


 そう結論付けたヤクモは、それ以上考えることなく、カプセルを飲み込んだ。

 

 胃の中へと運ばれた薬は胃液によって消化され、じわじわと効力を発揮していく。すべての感情を底上げするように調整されたディプレゼが正常に働けば、MSTが機能し、化学物質によってその感情すべてがリセットされるはずだ。

 

 ヤクモは椅子に腰かけてその時を待った。

 

 一時間、二時間と時計の針は進んでいく。次第に、待つことが退屈になってきて、先ほどの難問に取り組むことにする。

 

 どうして、僕はSLSの研究をしているのだろうか?


 ヤクモは疑問を頭に浮かべる。


 と。


 言葉にできない複雑なものが、心の中からあふれてくる。枯れた泉から、水が湧き出るようにじんわりと体全体へと広がっていく。


 突き動かされるような衝動は、徐々に大きくなって、パンと頭で光が弾けた。


「そうだ。僕は」


 ミコトを治したいから、SLSの研究を始めたんだ。


 治して、それから?


 それから――。


 楽しくて嬉しくて、哀しくて、自分に怒りたくなった。


 やりたいことは一つだけ浮かんできた。やりたかったができなかったこと。その時にはまだ、思いもしていなかったこと。


 好きだと、ミコトへ伝えることを。


 感情の高まりとともに、ヤクモは立ち上がる。


 病院へと駆けだそうとした矢先、ヤクモの体がビクンと停止した。脳がMSTによってフリーズし、先ほどまで体中を駆け巡り、せっつかせていた感情が、化学物質によって洗い流されていく。


 そこに、先ほどまでのヤクモはいない。


 感情のままに行動しようとしていたヤクモはいない。


 静かに扉を開いて、静かに扉を閉めた。



 その後のことは、後世が伝えるとおりである。


 ヤクモは病院で眠るミコトへ試作型のディプレゼを投薬した。一時的にとはいえSLSの症状から脱したミコトと感情を失ったヤクモ。そんな二人が交わした会話とプロポーズは多くの舞台や映画で取り上げられてきたので、今更説明することではないし、野暮というものだろう。


 だから、私はこの言葉で、話を締めくくりたいと思う。


 二人は末永くともに暮らしたのでした、と。

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