ミモザ・シンパシー

ミモザ・シンパシー その1

 多くの人々が生息可能な惑星を探して宇宙へと飛び出したあの日から、数世紀が経過した。


 人々は戦争を忘れて平和に過ごしていた。ありとあらゆるものが用意され、提供される時代においては、争わなくても何でも手に入った。個人の間でほとんどのことが完結し、関係という単語が死語になりつつある世界。


 これは、遠い昔に紡がれた、男女のお話。



 シンパシーレスシンドロームSLSが流行した理由は未だによくわかっていない。某国の化学兵器だなんていう声があるかと思えば、宇宙から降り注ぐ宇宙線によるものだという声もあり、増えすぎた人類を減らすための浄化装置だという声もあったが、SLSが発見されて一世紀が経過した今になっても原因はよくわかっていない。


 わかっていないことだらけの病気に、人類はなす術もなかった。


 全世界的に発症例が現れ始めてから数年後、ヤクモ・イザナ博士は博士課程を修了し、研究所へとやってきたばかりの新人研究者であった。鳥の巣みたいなもじゃもじゃ頭の冴えない男だ。彼は、新人でありながらSLSの研究に従事することとなった。世界中の研究機関の優先事項になっていたのだ。


 ヤクモとしても異論はなかった。SLSを研究したいがために、大学院を卒業したのだから……。



 ヤクモには彼女がいたとされているが、それは全くの嘘偽りである。後世が、彼と彼女の――ヤクモと幼なじみであるミコト・チシキの――恋愛模様を強調するためのものであり、この段階においては、単なる幼なじみでしかない。


 あるいは、研究対象だったと呼ぶのが適切だろう。


 ミコトがSLSに発症したのは七年前のことだ。ふたりは大学生であり、その時もまだ、両者の関係は幼なじみという幼稚園からの関係から飛び出していなかった。


「ね、三限の課題っていつまでだっけ?」


「……明日までだぞ」


「ウソつけ。来週まででしょ」


「それは統計学の課題な」


「ヤクモ君」


「そんな顔したって写させないからね」


「幼なじみのよしみでさあ。お願いっ」


 立ち止まったミコトが、ヤクモに手を合わせて首を傾げる。その姿は傍から見れば可愛らしい。だけども、ヤクモからすれば、幼稚園から見てきたものだ。すっかり慣れてしまっていた。


 別に、ヤクモだって、写させるのはやぶさかではない。だがそれは、ミコトが賢くなければの話だ。自分よりも――いやほかの誰よりも頭がいいくせして言ってるから、ヤクモは課題を見せたくないのだった。


 狙おうと思えば、医者や弁護士になるルートだってあったことだろう。そもそも、ヤクモと同じ大学には来ず、もっともっと上の大学へ進学することだってできた。


 だが、ミコトはそうしなかった。後世はこれを、ヤクモへの好意と捉えているが、解釈が分かれるところである。


 とにかく、二人は一緒の部屋に住み――といってもただれた関係ではない。むしろバカみたいにプラトニックな関係だった――同じ大学に通っていた。


 そこには恋愛感情というものはなく、普遍的感情に彩られた日常があった。


 そんな日常は、いつまでも続くかのように思われた。



 SLSを発症したミコトは、幼稚園で出会った時の彼女を大きくさせたような感じだとヤクモは思った。無菌室に入れられた――この時は感染症の疑いがあったのだ――ミコトは退屈そうに頬を膨らませた。理知的な光が失われた瞳はきょろきょろ動き、ヤクモをとらえたかと思えば、おもちゃを放り投げた。


「いーちゃん!」


「誰がいーちゃんだ」


 ヤクモは条件反射的にミコトの頭をチョップする。困惑したような表情が返ってきて、ヤクモは血の気が引いていくのを感じた。いつもなら、にへら顔を浮かべるのに。


 ベッドに寝ているミコトは、昨日までの彼女と変わらない。だというのに、別人のようだとヤクモは思った。


 ヤクモが、ごめん、と口にして、ケーキが入った箱を机の上に置く。


「なあにこれ」


「洋菓子屋で買ってきたケーキ。甘いの好きだっただろ」


「あまいのだいすきっ」


 ミコトが、箱をいそいそと開ける。中にはショートケーキが二つあった。キラキラと瞬く瞳が、食べてもいいのかと確認するようにヤクモを見つめた。


「食べていいよ」


 その言葉を待っていたかのように、ミコトは入っていたプラスチックのフォークを握り締め、ケーキへと突き刺す。削り取られたケーキは、大きく開かれた口の中へと消えていく。おいしそうに食べる彼女の姿を、ヤクモはじっと見つめていた。


 と。


 ミコトがヤクモの方を向いた。


 ヤクモの目前にフォークが突き出される。


「たべる?」


 ケーキひとかけらを前にして、ヤクモは考える。少しの間、考えて。


 マスクを外し、ケーキを食べた。


 むしゃむしゃと咀嚼し、ごくんと飲み込む。


 にこりと微笑むと、ミコトも嬉しそうに笑うのだった。



 実際にこのようなやり取りがあったかは定かではない。ウイルス学の博士課程に進むことになる男が、感染症の疑いのある人間が用いた道具を使用するのか疑問だ。まともな思考の人間ならそんなことはしない。これもまた、後付けされた物語と思われる。ただ、病院の無菌室を訪れたという記録は残っているから、無菌室を訪れたのは事実である。


 SLSを発症したミコトとの対面によって、ヤクモがどう思ったのかは彼の日記には記録されていないが、その日から理系の勉強をはじめ、経済学部から理学部への編入を一年で達成した。


 そこから、生物学やウイルス学の勉強を始め、その方面の研究を行うために大学院へと進学し、大学院を卒業したヤクモは、ウイルス研究所へ就職する。この時にはすでに、その病に大した感染力はないということがわかっていたが、ウイルスによるものという考え方は根強かった。


 研究者たちは、SLSの原因が、脳の機能不全であることは突き止めていた。侵入したウイルスは全身を駆け巡り、大脳辺縁系にたどり着く。そして、炎症が起き、認知能力をはじめとした脳機能をダメにしてしまう。だから、認知症めいた症状を呈してしまうというわけだ。だが、どうして大脳辺縁系だけに炎症が起きるのかはわかっていない。また、既存の薬、あるいはワクチンが効果をあげていないことも奇妙であった。


 誰かが気づいてもよさそうなものだった。SLSが発見された混乱期を抜けた今、誰が発見してもおかしくはなかった。


 ヤクモが真実に気が付いたのは、まさしく偶然だった。



 取りうる手段が考えられなくなったヤクモは、医学系の論文を読み漁っていた。過去提出された論文に、類似するような症状はないかと探していたのだ。だが、なかなか見つからない。うーんと、両手を上げる。コーヒーでも飲もうと伸ばした腕が、コピーした論文の山に当たり、どさどさと雪崩が起きた。


 紙が、ただでさえ汚い床へ舞い散る。


 一面真っ白な床を見て、ヤクモは硬直した。それから、ため息。立ち上がり、重い腰をとんとん叩きながら、床の論文たちを拾い上げていく。頭をかきながら、どうしてこんなことをしているのだろう、とヤクモは思っていた。


 拾い上げた一枚に、ふと、視線が吸い込まれた。


ブレインサポートチップBSTにおける、効用と課題』


 それが、その論文の題名だった。


 興味を惹いたのは、ブレインサポートチップという胡乱な単語だ。言葉から察するに、脳の機能をサポートするものなのだろう。そんなものが存在するという話を、ヤクモは聞いたことがなかった。市場にも出回っていないし、医療用のものでもなさそうだった。


 だが、論文という形になっているということは、BSTなるものがこの世に存在していたという証拠。


 表紙の端に書かれた日付は、何世紀も前のものだったことが、驚きであると同時に信憑性があるように思われた。


 これがあれば、機能不全になった脳機能をある程度取り戻すことができるかもしれない。


 散らばった紙を一枚一枚確認し、論文を探していく。


 一時間ほどで、論文のすべてを見つけ出した。ほかの論文がそこここに散らばっていることには目もくれず、ヤクモは件の論文に目を通す。


 論文に書かれていたことは、にわかには信じられないようなことであった。


 プレインサポートチップは、脳内に埋め込み、脳がどのように動いているのかをモニタリングする。また、感情を抑圧・沈静化することも可能と書かれていたことが、ヤクモを驚かせた。化学物質でとはいえ、感情を操作する術は、未だ見つかっていない。少なくとも、ヤクモが知る限りではだが、それが数世紀前に発見されていた……?


 論文を読み進めていくと、その理由がおぼろげながらわかってきた。


 BSTの実験データが記載されていたが、それによれば、確かに感情を操作することはできる。だがそれは、1か0かでしかなかったらしい。感情があるか、ないか。だから、怒りをなくすとか喜びを増やすとかではなくて、感情そのものがなくなったことによって、リセットされていただけなのだと。


 それは、一瞬だけ居眠りしてしまった時のような、あるいはうたたねしたときの心地よさがある、と論文には書いてある。それだけならば、何の問題もないように思える。だが、実際は違う。


 感情を化学物質によって強制的に沈静化していると、感情そのものがフラットになっていくそうだ。論文内では、怒りを制限された兵士の話が載せられている。まず怒りがなくなり、それに合わせて他の感情が強まって、最後にはどの感情もなくなり、寝たきり状態となってしまった。


 症状だけを見れば、SLSと類似している。


 原因は、大脳辺縁系が機能不全になったから、となっていた。


 もしかしたら、BSTが大脳辺縁系を機能不全にするプロセスを解析したら、何かがわかるかもしれない。――症状を緩和する薬とか。


 論文の束を持つヤクモの手は震えていた。糸口を見つけたという実感に打ち震えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る