第十二章 脅迫   笠木創也・2019年9月2日

 笠木は自宅で自室のデスクの椅子に座り、タブレットでイラストを描いていた。このイラストは再来週に締め切りの単発の仕事で、個人のホームページとパンフレットに載る予定のイラストだった。以前はイラストの副業と工場の正社員の仕事を掛け持ちしていたが、工場の仕事は通勤途中に何者かに線路に突き落とされてから高倉に仕事を辞めて欲しいと言われ、退職をしていた。


 高倉は今日月曜日なのでいつも通り仕事帰りに、夕方札幌駅近くにある精神科のカウンセリングに行きやすいよう、コワーキングスペースで仕事をしているのだろうなと思った。


 笠木はパソコンのモニターの右下に表示されている時刻を確認した。もう少しで十七時だ。


 そろそろ夜ご飯の支度をしようと思い、パソコンをシャットダウンする準備をした。今晩は昨晩作った煮物の残りに炊き込みご飯とみそ汁の予定だった。炊き込みご飯は既に炊飯器に入れ炊飯のセットをしていたので、みそ汁だけ作ろうと思った。


 笠木が席を立とうとすると、インターホンが鳴った。居間にあるモニターを確認した。知らない私服姿の男が二人映っていた。


 笠木は不審に思いしばらく画面を見つめていたが、眼鏡を掛けた背の低い方の男は首から下げた社員証のようなものをモニターに向かってかざしてきた。笠木は「通話」ボタンを押した。


「はい」笠木はインターホンに出た。


「こんにちは。お世話になっております、高倉さんのご自宅でお間違いないでしょうか?」男は聞いてきた。


「そうです」笠木は答えた。


「私共は高倉さんの会社の者ですが、高倉さんはいらっしゃいますか?」男は社員証を胸ポケットの中に片付けながら聞いてきた。


「お世話になってます。すみませんが高倉は今不在です」笠木は疑問に思いながら答えた。高倉の職場の人間が自宅に来る事は初めてだったからだ。


「高倉さんに貸し出している業務用パソコンの環境の確認に伺うと以前高倉さんにお伝えしていたので来たのですが、今上がってもよろしいでしょうか?すぐに終わりますので」男は聞いてきた。


「ええと…本人が居なくても大丈夫なのでしょうか?」笠木は不安になり聞いた。


「大丈夫です。高倉さんにも許可をいただいてます」男は言った。


「わかりました。今開けます」笠木は高倉から一切話を聞いていなかったので戸惑ったが、高倉の会社で決めたスケジュールを破るわけにもいかないと思い、モニターの下にある「開錠」ボタンを押した。オートロックのドアが開き、男二人組がマンションの中に入って来るのがモニター越しに見えた。


 笠木は自室に戻りデスクの上に置いていたスマートフォンを持つと、高倉に電話をした。だが高倉には繋がらなかった。


 “有隆君の職場の人が来たよ。パソコン環境の確認だって。初耳だけど家に入れるよ?”笠木は高倉にチャットを送信した。チャットが既読になるかどうか確認する前に玄関のチャイムが鳴った。


 笠木は玄関に向かい、ドアのチェーンを外した。


「はい」笠木はドアを開けて言った。


 ドアの外には先程モニター越しに見た男二人が立っていた。


 一人はワイシャツでオフィスカジュアルな恰好で眼鏡を掛けた中年の男だった。先程社員証をかざしてきた男だ。もう一人はTシャツにジーンズ姿でキャップを被っていた。キャップで先程顔が良く見えなかったが、目つきの鋭い身長の高い男だった。笠木は身長の高い男の顔に見覚えがあった。


「あれ、もしかして…」笠木が身長の高い男に声を掛けようとした瞬間、眼鏡を掛けた男が急にドアを開けて玄関の中に入ってきた。笠木は急に態度の変わった男に恐怖を覚え逃げようとしたが、眼鏡を掛けた男から首元にナイフを突きつけられている事に気付き、動けなくなった。叫んで助けを呼ぼうにも、玄関のドアは閉められていた。笠木は玄関前の廊下の壁に背中をつけて、冷や汗が止まらなかった。


「喋るな。声を出したら高倉を殺す。俺達は高倉を人質に取っている。大人しく付いてきたら助けてやる」ナイフを持った眼鏡の男は息遣い荒く笠木に言ってきた。






 笠木は男に脅されて車に乗り、今はとある工場の中に連れてこられていた。


 両腕は自宅で既に結束バンドで縛られていた。マンションから出る際にマンションの管理人室に居た管理人に助けを求めたかったが、助けを求めたら高倉を殺すと脅されていたので何も声を出す事が出来なかった。体の前で縛られた手元は管理人に見えないようにシャツを被せられていた。工場に着くと、足元も結束バンドで縛られ動けなくなった。笠木は地面に直接座らせられていた。


 工場には誰も居なく、しばらく使用されていない廃工場のようだった。


 二階建ての広い建造物で、奥に二階に繋がる階段がある。窓ガラスは全て取り払われており外の風が直接中に入ってきた。今日は暖かいのでぬるい空気が工場内には溜まっていた。潮風の匂いと、何かを燃やしたような匂いがした。工場内は所々灰色の鉄柱が並んでいる。笠木は出入口から少し離れた工場内の中央に座らせられていた。出入口は一か所しかなく、錆び付いたガラス窓のない引き戸が目の前にあるだけだった。外はまだ明るく廃工場内には夕日が差していた。


 眼鏡を掛けた男は先程スマートフォンで電話をしていた。高倉を工場に呼び出していた。どうやら高倉を人質に取っているというのは嘘のようだった。人質に取られたのは自分だと笠木は気付き、後悔の念が後を絶たなかった。眼鏡を掛けた男は工場の奥を何やら確認しに行った。


「ごめんね」キャップを被った男は笠木の右横に立ち、手に持った結束バンドとタオルを触りながら笠木に小声で謝ってきた。


「どうして」笠木はこの男に初めて声を掛けられて驚いたが、男に小声で聞いた。


「俺も脅されてるんだ。従わないと父さんを殺すって」男は笠木から視線を外して小声で言った。


「だからって、どうして」笠木が続きを言おうとした時、眼鏡を掛けた男が戻ってきた。


「小川、お前ちゃんと見張ってろよ。変な事考えるなよ」眼鏡を掛けた男は言った。


「分かってます、辻井さん」小川と呼ばれた男は眼鏡の男の方を見ずに低い声で答えた。眼鏡を掛けた男は辻井と言う名前らしい。


 周囲に何も建物のない海沿いの廃工場の遠くに、車の走る音が聞こえる。国道が近いが誰もこの廃工場に寄る人間など居なかった。


「管理人は来るんだろうか」辻井は片手に折り畳みナイフを持ち、工場内を歩きながら苛立って言った。笠木は辻井と視線が合った。辻井は目を細めて笠木に言った。「お前はどのみち道連れだよ」


 ふと、廃工場の閉まった出入口の引き戸が開かれる音が聞こえ、笠木は扉の方を向いた。


「創也?」高倉の声が聞こえた。高倉が工場の扉を開けて中に入ってきた。


「有隆君、来ちゃだめだ」笠木は思わず高倉に叫んでいた。先程辻井が何と独り言を言っているか聞いていたからだ。


「久しぶりだな、高倉よ」辻井は笠木の左横に立ち、高倉に声を掛けた。笠木はまた折り畳みナイフが自分の首元に向けられたのを見て鳥肌が立った。ナイフは夕日に反射し光っていた。


「辻井さん?」高倉はナイフに気が付いていないのか、辻井を見て訝気な顔はしたがゆっくりこちらへ向かってきた。背中には大きなリュックを背負ったままで、コワーキングスペースから真っすぐやって来たのだろうかと笠木は思った。「辻井さん、何してるんですか。創也、怪我はない?」高倉は笠木に声を掛けてきた。


「それ以上近付くな」辻井は高倉に向かって言った。高倉は歩みを止めた。夕日が丁度高倉の顔を照らし、高倉の表情が笠木には見えなかった。辻井は話し続けた。「通話で言ったが警察は呼んでないよな」


「呼んでません。創也は巻き込まないでください」高倉は少し離れたところから声を振り絞った。


「お前は弟の事件から俺がどんな人生を歩んできたか知らないだろう。お前の事を俺はまだ殺人鬼だと思ってる。お前は昔から気に食わなかった。謝罪もどうせ演技だろう?お前は何も考えていない、お前は他人の気持ちが分からないサイコパスだ。お前が俺の嫁の顔をあんなにしたんだろう?顔も歯形も分からないくらいに粉々に砕いて。普通の精神じゃあんな事は出来ない。お前も人殺しだろう。お前が執行猶予で社会でのうのうと生活している事が俺には耐えられない」


 笠木は辻井の顔を恐る恐る見た。辻井は悔しそうな表情をしていた。声は震えトーンや抑揚が上下し情緒不安定に見えた。辻井は被害者遺族なのだろうかと笠木は思考した。


 反対隣りに先程から立ったままの小川は俯いて何も言わなかった。小川は手に持った結束バンドとタオルを気まずそうに触っていた。


「お前の恋人に傷をつけられたくなければ今から言う事を聞け。まずスマートフォンを出せ」辻井は高倉に言った。


 高倉は背負っていたリュックを肩から下ろし地面に置き、着ていたワイシャツのポケットからスマートフォンを取り出した。


「出しました」高倉は右手にスマートフォンを持って辻井に見せた。


「小川、笠木の口元をタオルで縛れ」辻井は小川に命令した。笠木は抵抗しようとしたが手足を縛られているので抵抗出来ずに口元をタオルで縛られ、うめき声しか出せなくなった。


「何するんだ、やめてくれ」高倉が言った。


「今から警察に電話をしろ。自首をしろ」辻井は言った。


「自首?」高倉は意味が分からないようで聞き返した。「何の自首ですか」


「この最近お前の周辺で起こっていた事件の自首だよ。犯行の全ての首謀者はお前だと警察に言うんだ。俺達はお前にただ指示をされてやっただけだと警察に言え」辻井は言った。


「それは」高倉は戸惑った。「俺はそんな事はしていない。それは警察も信じないんじゃないですか。無理があります」


 笠木は首元に向けられたナイフが自分の頬にぴたりと貼りついたのを感じ、全身から冷や汗が出た。頬をナイフが押し、わずかだが痛みを感じた。笠木は右頬から何かが流れるのを感じた。


「やめてくれ」高倉は叫んだ。


「こいつをこれ以上傷つけられたくなければ、言う事を聞け」辻井は冷たい声で言った。


 高倉は目の間で慌てながらスマートフォンを触り、誰かに通話を始めた。

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