第十章 慈愛   笠木創也・2019年8月16日

 笠木は自宅のキッチンでカレーを作っていた。後はもう煮込むだけなので、弱火の火で鍋の中身を木べらで混ぜていた。


 料理は基本笠木が担当していた。高倉は放っておくとフルーツグラノーラやプロテインしか摂らないのだ。栄養が摂れればいいと以前言っていたが、笠木は肉や魚も大事だと何度も伝えていた。笠木は以前から気付いていたが、高倉は食生活に無関心だった。


 笠木はキッチンに立ちながら左側を向き、高倉を見た。


 笠木の今立っているキッチンは居間との一体型で、高倉の部屋が真横に見える。

高倉は部屋の扉を普段閉めているが今は開けていたので、デスクに座りパソコンに向かって仕事をしている高倉が笠木には見えた。高倉は窓を背に座っているのでパソコンのモニター画面は見えないが、L字型のデスクにノートパソコンを二台置き、今は両方共に立ち上げて仕事をしている。高倉の表情を見たが、いつも通り無表情だった。


 高倉は耳にイヤホンをして仕事をしている。何を聴いているのかは分からない。


 笠木が見ていると、先程まで真剣な目つきで仕事をしていた高倉が何やら疲れたのか眼鏡を一旦外し、目元を抑えて目を瞑っていた。


 笠木は高倉を心配した。今の勤めている会社はブラック企業ではなさそうだが、以前勤めていた会社で高倉が連日深夜遅くまで残業し、土日も出社していた事を思い出してしまった。高倉は働き過ぎだと笠木は以前から思っていた。笠木は働いて高倉を支えたかったが、高倉に自宅に居て欲しいと懇願されていた。


 高倉がイヤホンを外し、眼鏡を掛け直し立ち上がってこちらに来たので、笠木は高倉と視線が合った。


「有隆君顔色悪くない?大丈夫?」笠木は高倉の顔を見て言った。目の下のクマが濃く見えた。高倉は以前から目の下にクマがある人間だったので、普段は眼鏡のフレームで誤魔化している事を笠木は知っていた。クマが出来た原因も知っていたが、高倉の前ではその話はタブーである事も知っていた。


 高倉は笠木に近寄ると、笠木を後ろから軽く抱きしめてきた。


「どうしたの?」笠木は心配して聞いた。


「色々巻き込んでごめんね」高倉は言った。


「大丈夫だよ。何かあれば有隆君を僕が守れるように頑張るし、支えるから」笠木は高倉を支える程の力が自分にはない事を理解していたが言った。これは笠木の願望だった。


「ありがとう。俺今また少しきつくて」高倉は言った。


「安定剤は飲んだ?」笠木は聞いた。


「少し前に飲んだ」高倉は言った。


「そういえば、この前のカウンセリングはどうだった?」笠木は火を一旦消して、木べらから手を離して聞いた。


「いつも通り。特に変わった事はないよ。でも弟の事を思い出すとまだ辛くなるんだ。今も冤罪を着せられそうになってる。アリバイはあるけど…創也の事も心配だし。罪の意識はあるけどもう落ち着きたい」高倉は低い声で項垂れて笠木に言った。


「大丈夫?頓服薬もう一錠飲もうか?」笠木は薬の置いてある高倉の部屋へ高倉を連れて行くために、高倉の手を握った。高倉から弟の話が出たのは意外だったので笠木は驚いたが、詳細を聞かない方がいいと思った。高倉は後ろから強く笠木を抱き締めてきたので、笠木は動けなくなった。


「動けないよ。薬飲まないの?」笠木は聞いた。


「創也前に大事な話があるって言ってたじゃん。あれ何だったの」高倉は聞いてきた。


「え?大事な話なんて僕言ったっけ」笠木は咄嗟に思い出そうとしたが、自分がそんな事を言った覚えがなかった。


「言ったよ、少し前に。何?別れ話?」高倉は強く抱きしめて聞いてきた。


 笠木は高倉から別れ話という単語が出た事に驚いた。


「違うよ。何で別れ話だと思ったの?」笠木は聞いた。


「最悪の事態を事前に予想しておく癖があってね」高倉は言った。


「僕と別れるのは最悪の事態なの?」笠木は聞いた。


 高倉は黙った。笠木は高倉の腕を解いて、正面から高倉の顔を見上げた。高倉は心の底が見えないような漆黒の瞳をしていて、今はその瞳の視線を笠木から逸らしていた。笠木は、自分が高倉に何を言おうとしたのか思い出した。


「ああ、何言おうとしたのか思い出したよ。この前またあの掲示板の書き込みのスクリーンショットが出回っていたの見つけてさ。書き込みは一回消えたのに、誰かが拡散したんだなって思って。これって名誉棄損になると思わない?訴えたら勝てるかな」笠木は高倉を見て苦笑いした。


「スクリーンショット?」高倉は笠木の目を見つめたまま驚いて聞いてきた。


「うん。僕の家庭環境の事まで悪く書いた書き込みだよ。母さんのせいで僕がゲイになったってやつ。同棲してる僕の事まで突き止めるなんてさすがだよね。僕母さんに顔向け出来ないよ。確かに母さんも自由奔放なところがあったのは認めるけど、別に母さんのせいでゲイになったわけじゃないし。顔向けと言っても、もう縁を切られたから連絡は出来ないけど」笠木は俯いて高倉から視線を外して言った。


 笠木はつい思い出してしまった。母親が父親と離婚後すぐに再婚し、既に新しい父親との間に子供がおり、自分がもう入る事の出来ない関係が築かれている事だ。母親には高倉との関係が露呈した後に別れる事を進められたが、断った結果縁を切る事になってしまった。


「ごめん」高倉は小声で呟いた。笠木は高倉を見た。高倉は俯いていた。


「有隆君は悪くないよ」笠木は言った。高倉の弟の事件が明らかになった後も高倉と付き合い続けると決めたのは自分だったので、笠木は高倉に謝られて複雑な気持ちになった。


「俺は創也の味方だからね。巻き込んで本当にごめんね」高倉は俯いたまま言った。


「そのスクリーンショットの画面保存してるから、今度有隆君も見てくれない?勝手に巻き込まれたのは僕だから気にしないで。僕人間運ないのかなぁ」笠木は苦笑いしたが、自分が咄嗟に何を言ったのかに気付き、慌てて訂正をした。「いや、有隆君の事じゃないよ。元カレの事とか、家庭環境とか色々あったから。僕昔有隆君が浮気したんじゃないかって不安になった事あったじゃん。ああいう事がなければ大丈夫だよ。僕バイセクシャルはトラウマがあるから。バイセクシャルじゃなくても同じか。浮気はだめだよ」笠木は言った。


「その男とはもう連絡取ってないんだよね」高倉は聞いてきた。


「当たり前じゃん。まぁ僕が着信拒否する前に、向こうに先に着信拒否されたんだけどね。最後に文句の一つでも言ってやろうと思ったんだけど、言えなかった」笠木は高倉に無念を打ち明けた。


 高倉はゆっくり笠木の後ろに手を伸ばし、笠木を正面から抱き締めてきた。


「俺は浮気はしないよ。浮気をする人間は嫌いだから」高倉はそう言うとまた強く抱きしめてきた。「創也は俺を裏切らないよね?」


「裏切るって何だよ。浮気はしないよ」笠木は高倉から裏切るという言葉が出た事に一瞬戸惑って言った。


「創也は俺が守るからね」高倉は笠木を抱き締めたまま言った。


「無理しないでね」笠木は笑って言った。


「そういえば俺さ、今の仕事がもう少ししたら落ち着くから、そのうち仕事を掛け持ちしようと思ってるんだよね。だからもう少ししたら一緒に居る時間が少し減るかもしれない。ごめんね」高倉は突然笠木に言ってきた。笠木は驚いた。


「掛け持ち?なんで?」笠木は高倉と居る時間が減る事が嫌だった。


「今の返済ペースだと遺族への慰謝料の返済が遅れる。早く返済したい」高倉は笠木から手を離して言った。


「でも掛け持ちは大変だよ。体壊しちゃうよ」笠木は心配した。「僕も働こうか?」


「創也は関係ない。俺の問題だよ。早く身軽になりたいんだ」高倉は笠木から目を背けて言った。


「気持ちは分かるけど」笠木は慰謝料の話から一瞬、昨晩高倉が言った寝言を思い出した。「そういえば昨日有隆君何て寝言言ったか覚えてる?」


「今朝も言われたけど覚えてないよ。俺何か変な事言った?」高倉は不安そうな顔で笠木を見てきた。


 笠木は面白くてふと笑ってしまった。


「僕に結婚したいって言ってた」笠木は言いながら恥ずかしくなった。笑いながら高倉の顔を見ると、高倉は真顔になっていた。笠木は笑いが止まった。


「今の日本だと同性婚は出来ないの知ってるよ」高倉は俯いて言った。


 笠木は、高倉が真面目な表情をしている事に驚いた。


「冗談じゃないの?」笠木は高倉に聞いた。


「迷惑だよね」高倉は言った。


「迷惑じゃないよ」笠木は嬉しかったが、突然高倉からまたプロポーズをされた事に戸惑いが隠せなかった。


「今はまだ無理だけど、そのうちに聞こうとは思ってたんだ。養子縁組の話」高倉は笠木を見て真面目な表情をして言ってきた。


 笠木は戸惑った。高倉とはもう四年も交際している。笠木は待っていた言葉だったので嬉しかったが、被害者遺族の手前嬉しい気持ちになって良いのか不安になった。


「でも、被害者遺族の手前こういう事はしちゃいけないと思っている自分も居て。だからせめて慰謝料を払い終えてから、聞きたかったんだ。ごめんね。こんなところでこんな話して」高倉は笠木の考えている事を代弁するかの如く言った。「そのうちちゃんとした場所で話させて」


「ありがとう。気持ちはとても嬉しいよ。待ってるよ」笠木は高倉に微笑んで言った。

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