第7話 ゴブリン



「それじゃあ、俺が見たあのミノタウロスは……この世界がこうなる予兆だったってことなのか?」


 呟かれるその言葉に、答える者はいない。

 明は、項垂れるようにして顔を覆うと、必死に思考を回した。


(――――落ち着け。まずは現状を整理するんだ。この世界にモンスターが溢れたのは、もう間違いない。俺が寝たのは午前一時すぎ……。たった九時間の間に、街にはミノタウロス以外のモンスターが溢れかえった。今、外に出るのは危険だ。状況がまだよくわからないし、しばらくは会社に引きこもらないと――――ッ、そうだ。電気とか水は!?)


 ハッとして、明は立ち上がった。

 慌てるように駆け寄り、開発部室内の電気スイッチを押す。しかし、室内灯は灯らない。ならば水はどうかと、廊下の先にある給湯室へと向かい蛇口を開いてみるが、やはりと言うべきか。水は流れてこなかった。



「生活インフラは、全滅か」


 呟きながら、明はその場に座り込んだ。



「……これから、どうすればいいんだよ」



 現実に現れたモンスターと、唐突に訪れた死。過去へのタイムスリップ。それに加えて、たった一日。寝て起きれば、世界が滅びている。これが、夢であればどれほど良かったことだろうか。


「それに、俺にしか見えていないゲームのような妙な画面もあるだって? ……こんなの、俺自身がゲームの世界に入り込んだと思うしか――――」


 そこでハッと、明は思い出す。

 自分自身のステータス画面としか思えない、あの画面に表記されたレベル。

 もしもこれが本当に、ゲームと同じ様にモンスターを倒せば経験値のようなものを得て、レベルが上がるのだとしたら。

 ミノタウロス以外の――あの窓の外で、我が物顔でうろつくゴブリンなどを倒してもレベルが上がるのだとしたら。



「この世界で生き延びるには、モンスターを倒していくしかない?」



 その真偽は不明だ。

 けれど、それは限りなく真実に近いように思えた。


(……とにかく、今は生き延びることだけを考えよう)


 これまでとは違う、モンスターがいる世界になったということだけは間違いない。であれば、今はその現状を嘆くよりもまずは生き延びるために行動するのが先だろう。


「よし」


 自分自身に気合を入れて、明がようやく立ち上がったその時だ。




「ぎひぃ!」




 ふいに、黒板を爪でひっかくような耳障りな声が聞こえた。

 その声に反応して、ハッとして明は振り返る。


 ――いったい、いつからそこに居たのだろうか。


 給湯室の出入口には、棍棒らしき木の棒を手にした一匹のゴブリンが立っていた。おそらく、どこかの窓を割って社内に入り込んでいたのだろう。まるで獲物を見つけたことを喜んでいるかのように、ニタニタと嗤うその姿はどこまでも醜悪で、薄気味悪い。

 黄色く濁ったその眼が細められるのを見て、明はゴブリンに値踏みをされているのだとすぐさま気が付いた。


「ひっ」


 思わず、明の息が止まる。

 じりじりと後ずさりをしながら、明はすぐさま周囲へと目を向けて武器になりそうな物を探した。

 しかし、いくら探しても会社の給湯室には武器になりそうなものが何もない。

 置いてあるのは茶器や電気ケトル、紅茶のパックやコーヒーの粉末といったものばかり。どれも、身を守るための武器にはなりえないものばかりだ。


「ぎぎぃ、げげェへぇ!」


 ゆっくりと後ずさる明に向けて、ゴブリンが何かを言った。

 理解できない言葉だった。

 けれど、その言葉が決して友好的でないことを、明は本能的に察していた。


「げげげ、ぎぎひぃ」


 どうやら威嚇しているらしい。

 何かを言いながら、ゴブリンはその手に持つ棍棒を見せつけるようにして振るった。


「――来るな」

「げげ、ぎぎひぃ」


 何度目になるか分からない威嚇の後、ゴブリンは明にその言葉が通じないことをようやく理解したようだ。

 まるでつまらないものでも見るかのように、ゴブリンは冷めた視線で明を見つめると小さな息を吐き出して、ゆっくりとした足取りで明の元へと歩き出した。



「来るな……。来るなァッ!!」



 ひたり、ひたりとゆっくりと近づくゴブリンに向けて、明は茶器やマグカップ、コーヒー粉末の入った瓶や紅茶のパックなどといった周囲にあるものを手あたり次第に投げつけた。

 ゴブリンは、投げつけられるそれらの物を鬱陶しそうに手で払い、時には避けて見せると、ニタリと、その口元にまた笑みを浮かべる。


「ぎぎぃッ!」


 そして、ゴブリンは一気に明の元へと駆け出した。

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