第2話 目覚め
「――――う。――じょう! おい、一条ッ!」
大きな声で名前を呼ばれて、明はハッと意識を取り戻した。
「――ッ、死にたくな――――――ぃ?」
反射的に大声で叫び、そしてすぐさま明は目の前に広がるその光景を目にして、ゆっくりと口を閉ざした。
見慣れたデスク周りだった。
机上に置かれたパソコンモニターと、机の端に積み重なったエナジードリンクの空缶。乱雑に貼られた付箋のメモは、ベタベタとモニターの周囲を覆っていて、その両脇には仕事用に買った参考書がずらりと並んでいる。
大口を開けた怪物も、滴り落ちる真っ赤な血もそこには存在していない。
どれもこれも見慣れた、会社にある自分の席だった。
「…………ぇ?」
呆然として明は呟き、周囲を見渡す。
そしてふと、ソレが目に入る。
――――足が、ある。
ミノタウロスに引きちぎられ、食われたはずの足が……。確実に失われたはずの自分の足が、そこにある。
「――――なんで?」
ありえないはずのその光景に、一気に血の気が引くのを感じた。
「どうして?」
明は、そこにある自らの足が実は幻なのではないかと手を伸ばす。
けれど、何度触ってもその手に触れる感触は確かに本物で、意識をして動かせば革靴の中で動く足指のその感覚に、明は失ったはずの両足がそこにあると認めざるを得なかった。
(俺の足は、アイツに食われたはずじゃ……? でも、俺の足はここにある……。それじゃあ、あれは夢、なのか?)
いや、だとしてもそれはおかしい。
あの痛みは、あの苦しみは、あの恐怖は確かに本物だった。夢という単純な言葉ですまされるような、そんな軽々しいものなんかじゃ決してなかった。
(でも、目の前には今、失ったはずの足がある。失くしたはずの両足がある。――だったら、アレは全部、俺の夢の中の出来事だったってことなのか?)
と、明が心の中で呟き声を漏らしたその時だ。
「一条ッ! 聞いているのか!? おいッ!!」
一段と大きくなるその声に反応して、明はすぐさま背後を振り返る。
するとそこには、長い黒髪を纏めたスーツ姿の女性が眉間に深い皺を刻みながら、ジロリとした鋭い視線を明へと投げかけていた。
明は彼女のことを知っていた。
七瀬奈緒。中学時代からの付き合いのある顔馴染みの先輩で、同時に明の所属する開発部第一課の主任を務める、直属の上司だ。
奈緒は、明と目が合ったことを確認すると、安堵のような深いため息を吐き出して口を開いた。
「やっと気が付いたか。急に電池が切れたように静かになったかと思えばいきなり大声を出して……心配したぞ。どうした? 具合が悪いのか?」
男勝りのような、ざっくばらんの口調だった。
奈緒がその口調で話しかける時は決まっていつも、周囲には誰もいない時だ。上司と部下という関係だが、旧い付き合いでもある自分との二人きりの時だけ、奈緒が昔の口調に戻ることを明は知っていた。
だから明は、気を楽にしている奈緒のその口調を聞いて、社内には今、自分たち以外誰も残っていないのだろうとすぐに察した。
「いえ、具合が悪いというか、妙にリアルな、悪夢を見たというか…………」
「悪夢? なんだ、お前……寝てたのか?」
「……かも、しれません」
明は奈緒の言葉に、小さな声で答えた。
自分でも何が何だか分からない。夢にしてはありえないほどのリアル感だったが、でも、こうしてちゃんと足がある。だとすれば、あの妙に生々しい記憶は夢だったと思う他ないだろう。
「疲れがたまってるんじゃないのか?」
心配するような表情となって、奈緒は言った。
「確かに、お前の抱える案件は納期が迫っているが……。根の詰めすぎで倒れたら元も子もないだろ」
奈緒はそう言葉を続けると、大きなため息を吐いて口を開く。
「だから一条、いい加減に帰れ。まさか、また……お前は、終電まで仕事を続ける気なのか?」
そして、告げられたその言葉に、明は思わず息を止めた。
――――知っている。その言葉を、俺は知っている。
そして、その次に続く言葉が、予想出来る。
「納期を守るのは大事だが、自分の身体も大事にしろ」
奈緒は、明の知る言葉で一言一句間違えることなく、そう言った。
「……しってる」
いったい何が起きている?
この会話は、数十分前に交わした会話だ。間違いなく、一度交わした内容だ。
まさか……これは夢、なのか? これが俗に言う、死の間際に見る走馬灯ってやつなのか?
「主任」
「なんだ」
「一度、俺を引っ叩いてください」
「は?」
奈緒が怪訝な顔となって明を見つめた。
「これが夢なのかどうか、確かめたいんです」
「…………お前、本当に大丈夫か? さっきから本当に変だぞ?」
本気で心配をするように、奈緒は言った。
「もういいから、今日は帰れ。私も、すぐにここを出るから」
奈緒は労わるように明の肩を叩くと、さっさと自分のデスクへと戻って帰り支度を始める。
「――――――」
呆然と、明はその様子を見つめた。いや、見つめることしか出来なかった。
もう、何がなんだか分からない。
これが、死の間際の走馬灯だと言われればまだ納得できるというものだ。
けれど、爪を立てた腕の痛みも、噛みしめた唇の感触も、肩に触れられたその感触でさえも、明にはどれもこれもが現実的に思えて仕方がなかった。
「何が、起きてるんだよ」
一条明は、ただただ呆然と呟くことしか出来ない。
彼がその呟きに対する答えを知るのは、それから数十分後のことだった。
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