第37話 紫雲台での誓い
ハワイから帰った里奈と甚弥を待っていたのは、㋥佐々木の代表、佐々木勝也の訃報であった。佐々木は三日前、所属するゴルフ倶楽部コンペのパーティーのとき、軽い頭痛を感じた。だが自身が理事を務める俱楽部コンペのパーティーの席でもあり、我慢して他のメンバーと酒を酌みかわし、午後7時にお開きとなるまで付き合った。
その後待たせてあった車に乗り、運転手に「頭が痛いので静かに走ってくれないか」といった後、いびきをかいて寝てしまった。
普通なら阿寒温泉のゴルフ倶楽部から米町の自宅まで、約2時間の道のりである。だが運転手は佐々木に言われた通リ、約3時間かけてゆっくりと走り、自宅に着いたときは午後10時を回っていた。
出迎えた妻の民江は鈴木の異変に気付き、かかりつけのクリニックに電話をかけた。だが電話はリーンリーンとなるだけで、応答する気配はなかった。
大急ぎで救急車を呼ぶと、救急隊員は受け入れ可能な病院を探し、走り回った末、釧路市民病院に搬入された時は阿寒町のゴルフ倶楽部で頭痛を感じてから10時間を過ぎ、午前1時になっていた。
市民病院の宿直医師は鈴木の容態から、血栓のつまりによる脳梗塞と診断した。
しかし、脳梗塞は時間との闘いといわれていて、発症後4時間半以内ならPAという血栓を溶かす製剤の投与も可能であるが、それを過ぎたら弊害が多く、投与してはいけないとされている。
佐々木は発症後すでに10時間を過ぎていて、製剤による治療は不可能であった。
また、手術による血栓除去も、発症後8時間以内と決められていた。
有効な手立てもなく、佐々木は午前2時、息を引き取った。
里奈と甚弥が釧路空港に着いたとき、媒酌をしてくれた佐々木はすでに、紫雲台墓地に埋葬されていた。
無駄だとは知りつつも「どうして待ってくれなかったんですか」と叫ばずにはいられなかった。
佐々木の妻民江は「あの人はね『俺は仲人をするのは初めてだし、あの二人に何を言ったらいいのかな』と言ったのよ」と、里奈と甚弥の結婚式の前日の佐々木の様子を語ってくれた。
以外であった。佐々木勝也ほどの人なら、今までに何組もの仲人をしているのだろうと思っていた。だが自分たちの仲人をするのが初めてだったとは。
「そしてね、甚弥さんにお嫁さんが来てくれることになったのをとても喜んで、『甚弥はいずれ㋥佐々木の代表になる男だから、何かいい言葉をかけてやりたいな。
だけど俺は、上手いことを言うのは苦手だからな。お前が上手い言葉を考えてくれよ』って私に相談したのよ。
だから私が、『次郎長の意思を次いで、5代目の代表になったときは、人のために尽くしなさい』っていうのはどうかしらと言ったら『うんそれはいいな、あとは俺が少し考えてみる』と言って、何度も紙に書いて練習していたわ」
あの結婚式のとき、勝也が言った「お前たちを今日から、次郎長の直系と見做す。
よって今後ことの成しの一切は、威を持つものとせよ」とは、そういう意味だったのか、と初めて理解できた。
それにしても、いつも気難しい顔をしていたあの人が家では女房に、「うまい言葉を考えてくれ」とお願いする人だったとは、なんとも可愛くて、愉快な親父だな、と思わず笑ってしまった
亡くなってから本当のことを知るのはよくあることだが、佐々木勝也もそういう人だった。さらに4代目の代表が慎太郎で、次の5代目の代表に、甚弥を考えてくれていたことも、民江から聞いて初めて知った。
自分は粗末な家に住みながら、5代目になる甚弥と里奈のために、あの歴史のある豪華な邸宅に住まわすことにしたのか、と改めて感謝の気持ちを抱いた
甚弥は紫雲台の墓石の前で、「威を持って人に尽くしますと」とこうべを垂れた。
☆☆☆
㋥佐々木はそれまで社員に肩書というものを与えていなかった。
代表取締役の佐々木だけは代表と呼ばれていたが、事実上の社長であった慎太郎にしても肩書は与えられず、全員同列で序列というものがなかった。
しかし鈴木が亡くなったことで、慎太郎が正式に代表取締役社長となり、
甚弥が取締役専務、菊池順子が取締役常務となった。
だが新体制となった㋥佐々木には。とてつもない難題が待っていた。
釧路駅から幣舞橋に至る約1キロの道を北大通リといい、ビルが立ち並ぶ釧路のメインストリートである。3丁目には洋子がいる㋖北村があり、北大通リを挟んで向かいには、新釧路デパートという約50店のテナントが入るデパートがある。
新釧路デパートになる前はこの場所に平和商市場という市場があって、20数店の商店が営業していた。15年ほど前にこの市場が中心となって、新釧路デパート協同組合が設立され、4年後新釧路デパートが誕生した。
このデパートの設立には、㋥佐々木も大きく関わっていた。
平和市場は約1000平米の土地に20数店が入居していたが、デパート建設には最低でも2000平米の土地が必要で、隣接する末広町3丁目に1000平米の土地を確保する必要があった。この末広町3丁目に2000平米の土地を持ち、事務所を構えていたのが㋥佐々木であった。また㋥佐々木は末広町3丁目にビルを2個持っていて、ドレスショップ田島など。20数店の商店が入居していた。
新釧路デパート協同組合は㋥佐々木の移転と、すでに営業している店にクシロデパート完成後に入居してもらうか、他の場所に移転してもらうかなどの要請をした。
しかし休業中の代替え店の確保や、休業補償などで交渉は難航した。
その時㋥佐々木が先ず移転を受け入れて、黒金町に移転した。また店子の各店にも働きかけて新釧路デパート計画は進むこととなった。
苦労して開店にこぎつけた新釧路デパートは、市民に受け入れられて、順調に売り上げを伸ばし、計画通リの成果を上げた。
それから約15年経ち、新釧路デパートは曲がり角を迎えることとなった。
まず釧路駅前にパルコというビルがオープンした(東京のパルコとは別企業)。
パルコビルはキーテナントの金市館の他、ホテル、ボーリング場、飲食店、医療機関などが入居して、駅前という立地と相まって。高い集客力を持っていた。
さらに4年後、長崎屋釧路店が幸町にオープンすると、廉価が売り物の金市館と長崎屋に、客足は流れるようになった。
追い打ちをかけるように200海里問題の影響がジワジワと忍びより、釧路港を母港とする漁船の水揚げ量は、日本一の座を青森県の八戸港に明け渡すこととなった。
加えて日本社会党の前釧路市長の山口哲夫が取った工場誘致条例廃止の影響により、大企業の工場の釧路離れが始まっていた。
これらの事情が重なって、あれほど栄えた釧路にもいつか、不況の風が吹き始めていた。
末広町を地盤とし、店子を多く抱える㋥佐々木に、末広町の振興策の期待がかけられた。だがそれは、途方もない荒海に船出するような道であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます