第36話 線引き小切手とワーファリン


 極東水産が降り出した100万円の小切手が、洋子とフイッシャーズのメンバーに送られてきた。だがその小切手は、札幌市民銀行の本支店でなければ換金できない、特定線引き小切手であった。特定線引き小切手とは、2本の線の間に銀行名が入っていて、その銀行に口座を持っていなければ、換金できない仕組みをいう。

 札幌市民銀行は札幌市周辺に支店があるだけで、釧路には支店がなかった。

 釧路に住む洋子も他のメンバーも、札幌市民銀行に口座は持っていなかった。


 しかも小切手を換金するには10日以内に裏書をして、銀行に提示しなければ無効になる提示期限があり、10日以内に札幌まで行って口座を作らなければ、せっかく貰った100万円の小切手が、ただの紙切れになってしまう。

 実際には6か月以内であれば請求権が失われることはないが、素人にとっては面倒な手続きを必要とする。

 貧乏暮らしをしているバンドマンにとって、100万円もの金は銀行強盗でもしなければ手に入らない大金である。


 どうしようかと考えたすえ6人は、㋥佐々木の慎太郎に相談することにした。

 すると慎太郎は「こういう場合、町の金融業者なら5割取られるところだが、次郎長の精神に則り、お前たちには特別に、3割にしてやる。ありがたく思え」といってそれぞれに70万円渡した。

これが次郎長の精神というものなのか。悪徳商法そのものだ。


 ◇◇◇


 極東水産の代表の立花平太は、息子の半平太を呼びつけて「お前は会社の当座預金から、600万円もの小切手を振り出したそうだな、お前の不始末で起きたことに、会社の金を使うとは何事だ、その金は自分の金で払え」と激怒した。


 半平太は経理部の課長、井上を呼びつけて「俺は釧路市民銀行の小切手を送れといったはずだ。今すぐ札幌市民銀行に電話して、無効にしてもらえ、出来なかったらお前は首だ」と怒鳴りまくった。

 恐れをなした井上は、発行済の小切手が無効化ができないのは承知の上で、「2~3日中に何とかいたします」と、その場しのぎの返事をした。


 社長の平太を諦めさせるか、専務の半平太を諦めさせるか、そうでなければ自分が首になると追い詰められた井上は、100万円の現金を持って行った高弁を思いだし、相談してみることにした。

 高弁という人は獄中にいる人のため、一所懸命に戦っている正義の弁護士だ、自分もきっと救ってくれるに違いないと思った。


「あなたの会社の社長さんも、専務さんも会社のために頑張っているのですね。間に立っているあなたがどれほど苦労しているか、私にもよくわかります。あなたの力になりたいと思います」と高弁は、相談に来た井上に、仕事を受ける約束をした。


 ☆☆☆


「おい沢村、お前の出番だぞ」と高弁は、パチンコ屋とサウナを行ったり来たりして暮らしてる沢村を、末広町の喫茶店 笛園に呼び出した。

「先生またですか、痛いのはもうコリゴリですよ」

「大丈夫だ、今日は痛くないものを持ってきた」と言って、白い薬を見せた。

「先生まさか、おれを薬漬けにしようってんじゃないでしょうね。俺はお袋から『殺しと薬だけはするな』って言われてんですよ。


「大丈夫だこれは飲めば飲むほど長生きする、ワーファリンという大学病院の医者も太鼓判を押している安全な薬だ、分かったな、分かったら黙って飲め」

「先生、安全だといってもよ、保証があるのかい」


「お前テレビを見たことがないのか」

「テレビなら毎日サウナで見てますよ、だけど飲めば飲むほど長生きする薬なんて、宣伝はしてないですよ」


「国営放送のN〇Kが宣伝をするわけがないだろ。いいかN〇Kで毎週金曜日にやってる健康番組があって、先週は女優の吉永小〇合さんと、お笑いの島田〇介さんがゲストだったんだ。吉永小〇合さんはお前も知ってるだろ」

「知ってますよ、吉永小〇合さんみたいな美人女優を知らないわけがないだろ」


「そうだろ、それでな先週は血液の話で、スタジオで血液がきれいか汚いかを測定したんだ。すると、ゲストの吉永小〇合さんの血液には「ワ~きれい、サラサラしてる」と言って、お笑いの島田〇介さんには「ワ~汚い、ドロドロしてる」って言ってたぞ。

「それは俺もみましたよ。さすがに吉永小〇合さんは顔もキレイだし、血液もキレイだなと思いましたよ。だけどよ先生、吉永小〇合さんの血液とこの薬がどういう関係があるんだ」


「ところがちゃんと理由があるんだ、知りたいか」

「知りてえな」


「じゃあ教えてやるな。ちょっと医学用語が出てくるから難しいと思うけど、よく聞けよ。

 世の中には心房細動という、心臓の左心房の弁がピクピクと速く動く人がいて、そういう人は、血管が心臓から出るところで小さな血の塊ができることがあり、その塊が血管の中を流れて、脳の血管まで行ったとき、脳の血管は細いので、詰まってしまうことがある。すると脳の一部に血が行かなくなって、脳の一部は死んでしまう。世間ではこれを脳梗塞と呼んでいる。心臓は電気信号で動いていて、弁の動きを自分でコントロールすることはできない。そこで血液が固まらないように、いつもサラサラにしておくのがこのワーファリンという薬だ。どうだ分かったか」


「小難しい話ばっかりで分かる訳がないだろ、一体何を言いたかったんだ」

「だからよ、あの番組は収録の一週間前から吉永小〇合さんにこのワーファリンを飲ませておくんだ、すると、スタジオに来た吉永小〇合さんの血液はサラサラになっているってわけだ」

「だけどよ、もし島田〇介さんがワーファリンを飲まなくてもサラサラだったらどうするんだ」

「大丈夫だ、日本人の約8割はドロドロだ、だから島田〇介さんもドロドロのはずだ。もし間違ってサラサラだったら、司会の草野アナウンサーとアシスタント

 の女子アナウンサーを調べればいいことだ。どっちかは必ずドロドロだ」


「そうかそれは分かったけど、俺は何をすればいいんだ」

「じゃあ、今から行くぞ、ついてこい」と、高弁と沢村は末広町の豪華なマンションの駐車場出口で、料理研究家で地元のおばさまタレントの、田村可乃子を見張った。可乃子は極東水産の社長立花平太の愛人と言われていて、テレビCM にも出演していた。


 待つこと約1時間、可乃子の白いベンツが動きだした。

「先生行ってもいいか」

「ちょっと待て、その前に手を出してみろ」というと高弁は、沢村の右手の親指に

 爪楊枝をチクッと突き刺した」

「痛てっ、なにをしやがるんだ、血が出てるじゃねえか」

「大丈夫だ、ワーファリンを飲んでるから、少しは出っ放しになるけど、3日もすれば止まるから、死ぬことはない。それにお前はこれから3日間、医者と美人の看護婦が付いているから絶対に安心だ」


「分かった、じゃあ行ってくるな」と沢村は加奈子の白いベンツが出てくるのを見計らい、ドアミラーに手を触れるとその場に倒れ込み、ピクリとも動かなくなった。


そこに高弁が出て行って、「どうしたんですか。あっ、大変だ血が出てる。すぐに救急車を呼んで下さい」と高弁は加奈子を部屋に戻すと「いいかこれからお前を乗せた救急車はここから一番近い、末広病院に行くからお前はそこで5時間くらい眠ってろ。間違っても看護婦の手なんか握るなよ」と沢村に言ってると、ピーポ、ピーポと音がして、沢村を乗せた担架が救急車に積み込まれた。

 残った高弁と可乃子は警察官に事情を説明し、現場の写真をとってから、高弁の車に可乃子を乗せ、末広病院に向かった。


 末広病院の前田医師は「この人は心臓に疾患がありました。そこに交通事故

が重なって、意識を失ったのだと思います。

右手の出血が止まらないので、血液を採取して検査機関に送りました。多分明日には結果が出ると思います。私の想像ですが、この人はワーファリンを飲んでいるのだと思います。きっと心房細動だと思います。見たところ漁業関係の人だ思いますが、心臓に負担のかかる仕事はもう無理でしょうね。まだ若いのに気の毒ですね」

と高弁と可乃子に言った。 可乃子は固まって動かなくなっていた。


「大丈夫ですよ、僕は弁護士ですから誰にも秘密を漏らすことはありません。こんな形の出会いですけど、これも何かの縁だと思います。なんでも相談してください」

 そうですか、それじゃあ一つだけお聞きします。前田先生はもう働けないとおっしゃいましたが、その場合、私が生活費を出すのでしょうか」


「いえ、そんなことはありません、この人の年収と、仕事ができなかった日数によって違いますが、普通は3か月くらい誠意をもって尽くせばあとは示談とすることが多いですね。ただ、保険で払おうとすると保険会社は少しでも出費を抑えようとしますから、示談が成立せず、ズルズルと何年もかかってしまうことがあります。私たち弁護士だけでなく、加害者の人にとっても一番苦労するのはそんなときですね」


「そうですか、じゃあ近いうちに先生の事務所をお尋ねしたいと思います」

「いえ、あなたもテレビの撮影などでお忙しいと思いますので、ご相談ごとには

 私の方からお伺いいたします」

「それでは明日お越しいただけますか」

「はい大丈夫です」


 翌日高弁は可乃子のマンションに入った。真っ白い広いリビングに豪華な家具と、壁には誰かの大きな絵が飾ってあった。

「へー凄いですね。誰が書いた絵ですか」

「頂きものなので私にもよくわかりません」


「さすがですね、こんな素晴らしい絵をいただけるなんて、やっぱりテレビに出演される方は交際される方も私みたいな者とは違うんですね」

「そんなことはないと思います。高橋弁護士さんんも立派な方だと思います」


「おや、この写真は極東水産の立花社長ですね」

「ええ、立花さんには大変お世話になっています」

可乃子と立花平太の関係は、噂通リのようであった


 高弁がいろいろと考えていると可乃子はいつの間にか薄着になっていて、高弁の横に座り、ぴったりと体を寄せて、「あの方にはいくら払えば示談に応じてくれるでしょう」と、甘えるような声で具体的な金額を尋ねてきた。

 高弁は「そうですね。あの方の仕事を考えると月、100万円のくらいで示談にできると思います。それに治療費が少々かかりますが微々たるものでしょう」と敢えて事務的に答えた。

「それよりも明日あの方を見舞いに行くべきだと思います。大切なのは誠意を見せることです」と高弁の唇を求める可乃子を振り払い、「僕はこれで失礼します」とソファーを立った。

 可乃子は落胆したかのように肩をおとし「先生のおっしゃる通リにいたします」と力なく答えた。

 可乃子を落としたのは何の力だったのか不明であるが、立花に600万円貢がせるのは簡単なことのように見えた。あの立花からしてみれば、600万円くらいほんのわずかな吹けば飛ぶような金だろう。

 翌日前田医師は、「検査の結果この方は、心房細動と判明いたしました。また右手の親指に刺し傷がありますが。出血は収まりました。今は安定剤を打って寝てますが、明日には退院できると思います。あとは定期的な検診と、リハビリに励んで下さい」といい、病室を出て行った。


 高弁は可乃子を抱き寄せ耳元で「あなたは本当に美しい、今度あなたと出会ったら、自分を抑えることはできないと思います。そのとき僕は、誰に弁護をお願いしたらいいのでしょう」

「あなたが弁護士でなくても、あなたは私のすべてを知ってしまいました。

 もう隠すことは何もありません。私にとってあなたはもう離れられない人になりました」高弁は立花から金の他、可乃子まで奪うことに成功した。


 ☆☆☆


「おい沢村、いつまで寝てるんだ、早く起きてパチンコにでも行っちまえ」

「だけどよ先生、右手の親指が痛くて、パチンコを打てそうもないな、責任取ってもらうからな」

「何を言ってんだ、お前はそのおかげで心房細動が分かったんだからな。ありがたく思え」


「あんたそんなことよくいうな。それでも弁護士か。それよっか3日間何も食ってないからな。腹が減ってペコペコだ、何か食わせろよ」

「よし分かった、お前は心房細動と分かったから、安全な飯屋に連れてってやる」

 といって院内の食堂に入った。

「なんだこの肉なしの親子丼は。ウー不味い。もう一杯」

「禁煙パイポの真似なんかしやがって、ここは元々禁煙だ。分かったか」


 ☆☆☆


 高弁の手から経理部の井上に600万円の現金が渡されて、極東水産の当座預金口座は小切手を振り出す前の残高に戻った。だが自分の個人口座から会社の口座に移動しただけである。

息子の半平太も親父の平太から叱られることもなくなった。本当におめでたい親子だ。元をただせば、平太と、半平太の親子喧嘩が原因だ。極東水産の缶詰は、まずい肉なしの親子丼みたいな、塩っけも何もない病人食みたいな味がした。












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