第33話 極東水産の鮭缶
日が暮れて、中標津の空に星が見えるころ、美津子は今日も酪農研究所から車で帰宅する。カーラジオのダイヤルを道東放送の1283kHzに合わせても、でこぼこ道で車がガタンと揺れると、ダイヤルが勝手に動いて局が変わってしまう。
NHK釧路放送局は691kHzで、それ以外の中波放送はダイヤルを回しても、昼間は何も聞こえない。
ところが、空の色が藍色から黒に変わるころになると、だんだんと電離層が濃くなって外国の放送が聞こえるようになる。
ダイヤルをちょっとだけ左に動かすと何やら、演歌のような歌が聞こえてきた。
どうやらこれは北朝鮮の放送局で、金日成同志を称える歌のようだ。
ダイヤルを左にもう少し動かすと、中国語の放送が聞こえてきた、意味はよく分からないが、ニクソンとか、ウオーターなんとかと言っていた。
多分この局はアメリカのウオーターゲート事件を皮肉る、中国共産党の機関紙を読み上げているのだろう。自分の国の汚職を棚に上げて。
もう少しダイヤルを動かすと、ソ連の放送局が、フルシチョフ首相の演説を流していた。これも意味はさっぱり分からない。
日が昇り、電離層が薄くなると、「昨日横綱大鵬が引退を発表しました」と、日本の放送が聞こえてきた。道東新聞ニュースが終わると極東水産提供の天気予報 が始まる。
いつもはニュースとの間にピアノの演奏が流れるのだが、今日は女性歌手の歌が入っていた。
摩周湖の水のように澄んだ美しい声で「A mist lay over the town………」と歌っていた。直訳すると「霧に包まれた街」となるのだろうか、どうやら極東水産とのタイアップ曲のようだ。
曲名もどこの国の歌手かも分からないがとにかく、印象深い歌であった。
☆☆☆
和夫は毎日夜遅くまで、無線通信士の受験勉強に励んでいた。受験科目は電鍵による送受信の他、電波法、無線機器、数学、英語と電波伝搬がある。
電波伝搬とは、無線局のアンテナから発信された電波が、どのように相手局の受信器に届くかをいう。電波は長波から短波、超短波、極超短波と周波数には幅があり、一般のAMラジオ放送の中波は、地球を取り巻く電子の層、いわゆる電離層と地表の間で反射を繰り返し、どこまでも届く。
電離層は暗くなると濃くなる性質があり、昼に聞こえない外国の放送が夜になると聞こえるようになる。
逆に周波数が高くなると、電波は電離層を突き破り、どこまでもまっすぐ突き進む。人工衛星と交信ができるのは、極超短波という高い周波数の電波のおかげである。
和夫が電波伝搬の参考書を閉じたころ、空は明るくなって電離層は薄くなっていた。
さっきまで聞こえていた北朝鮮の「ナントカカントカ、スミダ」と叫んでいた放送も消えて、極東水産のCM をやっていた。
極東水産は和夫がいる近藤水産とはライバル企業なので、スイッチを切ろうとした。
ところがタイアップらしい歌が聞こえてきて、スイッチを切るどころか、聞き入ってしまうほど澄んだ美しい声だった。
歌が終わると曲名も歌手名も告げず、放送はお笑い番組に切り替わった。
どこかで聞いたことがあるような気がしたが、思いだせなかった。
気になって一睡もせずに道東放送を聞き続けたが、その日は朝の放送だけで終わってしまった。
翌日の朝も聞こうとしたが、睡魔に襲われて、聞くことができなかった。
その3日後、寮の朝食を食べながら道東新聞を開くと、極東水産のCM が小さく載っていた。
いつもなら、絶対に見ないライバル会社のCMだが、寮のおばさんの目を気にしながら、一文字も余さず全部読んでしまった。それによると。極東水産は鮭缶の新製品を発売予定で、期間中に添付されたハガキで応募すると抽選でタイアップ曲「霧の街」という歌のシングルサイズCD(8センチ径)が抽選で1000名に当たるというものであった。発売日は1週間後の金曜日であった。
曲名と鮭缶の発売日は分かったが、肝心の歌手名は書いてなく、普段CM に出ない有名な歌手の、いわゆる覆面CMソングのようであった。
こういう例は他にもあり、有名なものでは美空ひばりが味の素のCMソングとして歌った「愛燦燦」といういう歌がある。
和夫は「霧の街」のCDが欲しくて、極東水産の鮭缶を発売と同時に10個購入した。
同じような鮭缶は近藤水産でも作っていて、会社に隠れてこっそりと、アンケートのハガキに「大変おいしかったです。もう他の鮭缶は食べる気がしません。これからも愛用させていただきます」と書いてポストに入れた。
ご丁寧にお褒めの言葉を書いたにも拘わらず。結局和夫は抽選に外れ、ライバル会社の鮭缶だけが残った。
キャンペーンが終わると、CDは 正式に発売された。和夫は北斗電気のレコード売り場に行き、「霧の街」のCD を手に入れた。たがやっぱり、歌手名は伏せられて、ジャケットにはシルエットだけが載っていた。
和夫は受験勉強中も「霧の街」のCD を聞き続けた。また有線の8チャンネルでも徐々に人気が高まり、一位を続けていた ザ・ピーナッツの「情熱の花」に次ぎ、第2位にまで上昇した。
それでも歌手名は明かされず、覆面作戦は大成功であった。多分次の作品でシルエットの部分に写真が入り、名前も公表されるのだろう。和夫は覆面歌手の次作品が待ち遠しくなっていた。
☆☆☆
キャバレー麟の目ではいつものように、品川明とクールスターズと、フイッシャーズが交互にステージに立っていた。ところがある日、大きな問題が発生した。
東京から呼んだ某大物女性歌手が、1曲歌っただけでステージを降りてしまった。
理由も分からずおろおろするマネージャーたちとは反対に、客もホステスも誰一人として、大物歌手がステージからいなくなったのに気が付かなかった。
前座で歌った白木洋子はあれほど大喝采だったのに、大物と自負する自分が歌いだすとほとんどの客とホステスは自分の歌を聞こうともせずガヤガヤと話しだし、中には席を立ち、帰る客もいた、
大物歌手のプライドは引き裂かれ、白木洋子を睨みつけるように「田舎者のくせに生意気な、こんな店なんか早く潰れてしまえ」と捨て台詞を吐いて帰ってしまった。
白木洋子も洋子をスカウトした健治も困惑した。某大物歌手一人だけならまだいいが、彼女が所属する事務所は芸能界で最大の規模で、所属歌手のほとんどは彼女を慕って来た者たちであった。加えて彼女は事務所の社長の2号ともいわれていて、彼女の考え次第で、麟の目に今後芸能人が出演しなくなる可能性があった。
麟の目は幹部会議を開き対策を練った。結果、洋子はしばらく出演を自粛して、フイッシャーズだけで演奏することとなった。
健治はマネージャーの席を外され、営業部の主任に降格となった。
キャバレーの営業部とは主にホテルや観光企画会社などを回り、団体客やツアーの中にキャバレーを入れてもらうことをいう。いわゆるツアーバスの一環であり、どちらかと言えば、閑散期に来てもらえれば助かるといった程度で、大きな利益は期待されていない。
あくまでもキャバレーの表舞台は夜であり、昼 活動する営業部に回された健治は、憂鬱な気分に陥った。
一方白木洋子には、極東水産という会社の御曹司、立花半平太を中心とした、フアンクラブのようなものが生まれた。
半平太は極東水産の加工食品部門を任されていて、ボンボンの集まりといわれている釧路青年会議所の会員であった。
半平太はフアンという名目と、青年会議所の会員という肩書で、洋子に近づいていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます