第32話 500万円のチップ

 キャバレー ニュー東宝に保川旅館の社長、保川聖がやってきた。保川は汐未が共栄中学校の3年生だったころは、音楽の教師をしていた。5年ほど前に共栄中学校を退職し、今は実家の保川旅館の社長となっている。共栄中学校にいたころ保川は担任を持たず、音楽だけを受け持っていた。音楽室には校長も教頭も保川に遠慮して、立ち入ることがなかった。他の教師や生徒たちは音楽室とはいわず、保川大臣室と呼んでいた。

 校長は保川の旅館を愛人との密会に使っていて、料金を払ったことはなかった。


 敏江(汐未)も弟の健治も音楽の時間だけは、安川大臣室で教わった。

 教わったといっても、保川が教えるのは金持ちの子どもだけで、貧乏人の子どもには洟も引っ掛けなかった。

 ある日敏江がピアノに触れると、「こら!俺のピアノに触りやがって、お前の汚い指紋が付いてしまたらどうしてくれるんだ、お前はそこに立って房江ちゃんのピアノを聞け」と言ったあと、金持ちの娘でピアノを習っていた房江に、にっこり笑い「ショパンを弾いて、みんなに聞かせてあげなさい」と言った。


 その保川がどうしたことか、今日は連れの男にはペコペコと、頭を下げ通しだ。

 汐未のもとに美沙希(洋子の義姉の竹子)がやってきて、「保川さんと来た人は道東銀行の支店長の玉井さんよ」と教えてくれた。

 玉井は不二洋服店が健在だったときの担当で、そのころは支店長代理であったが、今は支店長に昇格していた。


 支店長代理のころは、洋子が務めている㋖北村も担当していて、毎日のように洋子のもとに来て、嫌みを言うのであった。

 あるときは「この店はもうダメだろうな、社長はどうしてあんたみたいな人を入れたのかな」と、大勢の人が聞いているところで平然と言った。


 確かにそのころ㋖北村は、釧路に進出した長崎屋と、キンカ堂に客を奪われて、売り上げは伸び悩んでいた。だがそんなことは玉井に言われなくても、経理部にいる洋子には分かることだ。

 それに玉井がいう「もうダメだ」とはなんという言い方だ。

優良企業の㋖北村に無理やり過剰な融資をして、他に自分が貸し付けて倒産した会社の不動産を買わせて、自分の責任を逃れているのを知らないとでも思っているのだろうか。


 そんな保川と玉井がキャバレーに来る理由は一つしかない。

 あの傲慢な保川が頭を下げて、銀行の支店長をキャバレーに接待するのは、よほど金に困っているのだろう。追加の融資をお願いしていることは、明らかであった。

 汐未はマネージャーにお願いして、二人の席に付かせてもらった。

 すると玉井は好色な目で汐未を見て、「これでどうだ」と言って、テーブルの下で片手を見せた。

「まあそんなにくれるの、いいわよ、じゃあ明日ではどうかしら」と言って翌日、リバーサイドホテルのロビーで会うことになった。


 翌日、汐未は高弁こと高橋弁護士に、ことの次第を連絡した。高弁はニタッと笑って「任せとけ」と言い、どこかへ飛んで行った。


 高弁が向かったのは、炭労会館というところであった。

 炭労会館は太平洋炭鉱の労組が作った施設で、年に数回組合員の結婚式がある他は、元労組委員長で、衆議院議員となった岡田〇春が、個人事務所として使っていた。岡田は労組から金をもらうだけで、事務所料を払ったことは一度もない。

 炭労会館は無駄に金を使う見本のような存在であった。


 建設にあたって労組執行部は組合員に無断で、組合員300名の組合費を担保に、道東銀行から1億円の融資を受けた。だが組合費は流動資産で本来、担保にはならないものである。

 さらに太平洋炭鉱は機械化と合理化が進み、組合員は減少し続けていた。

組合員の負担はさらに増し、執行部への不満が高まっていた。


 組合の執行部は組合費を不正に扱い、銀行は無担保で融資をしたことになる。

 無担保融資は銀行にとって重大な背任行為である。高弁が調べてみると、玉井が支店長代理のころ担当していたある商店は、全くの無担保で道東銀行から1千万円融資を受けていて、その1割を玉井に還元していた。


 支店長代理のころからすでに、こんなことをやっていた。とすれば、支店長となった現在はもっともっと、やってるに違いない。


どうして男がいるんだ、約束と違うじゃないか!・・・・・

 翌日リバーサイドホテルに現れた玉井は汐未だけでなく、高弁がいるのを見て、おっ立ったあそこが急にしぼんでいくのを感じた。

「私はこういうものです」と、高弁が名刺をだすと、あそこの力は完全にどこかへ行ってしまい、立ち上がろうとはしなかった。


高弁が保川との関係を問いただすと、あっさりと兜を脱ぎ、「これでどうでしょうか」と弱々しい声で言い、テーブルの下で片手を見せた。

 汐未が「あんた分かってないね、こっちはね、二人で来てんだよ。片手を半分にちょん切れっていうのかい。痛い思いをするのはあんただから、それでもいいけどね」というと、玉井は慌てて両手を出した。


「あんたまだ分かってないね、足にも指があるんだよ。半分というのは手と足を合せた10本のことを言うんだよ」というと玉井は観念してしぶしぶと、背広のポケットから財布を出した。

それを見た汐未は「あんたさ、その薄っぺらい財布にいくら入ってるからの、まさか月賦で払うつもりじゃないだろうね」


「はあ? 片手は5万円ですね、じゃあ両手は10万円ではないのですか?」

「あんた今は昭和だよ、江戸時代じゃないんだからね、指1本は10万円の時代だよ、そんなことも知らないで、よく銀行に勤めていられるわね」


というわけで高井は、汐未と高弁にそれぞれ百万円つづ、計200万円払うことにしぶしぶと同意した。

ホステスを侮った結果、玉井は高いチップを払うこととなった。


 翌日保川を呼び出すと、黙って50万円の入った封筒をテーブルの上に置いた。

「これは一体何の真似 ?」

「玉井さんは片手だったでしょ、私も同じでいいんじゃないでしょうか」


「あんた分かってないね、あんたが玉井に1割戻してるのは分かってるんだよ、1割って分かるでしょ」

汐未の迫力に負け「はい分かりました、じゃあこれでどうでしょうか」と保川は指を1本立てた。


「あんたってさ、まだ分かってないんだね。この人は息子も連れて来てんだよ、ほらここに」と、高弁のあそこに触れ、「100万を3っつに分けれったって、割りようがないでしょ、スッキリ3っつに割れるようにしてよ」と言って、うなだれたままの保川のあそこをギュっと握った。

 保川は観念して「これでいいでしょうか」と言って指を3本立てた。


「まあ、こんなにたくさんチップを下さるなんて、保川さんって本当に素敵だわ。

また来て下さいね」かくて保川は、玉井以上に高いチップを払うこととなった。


 その後玉井は銀行内監査で不正融資が発覚し、懲戒解雇となった。

 保川」はあてにしていた融資が得られず、保川旅館は倒産した。

 炭労会館は二束三文で㋥佐々木に売却され、岡田〇春の事務所は会館を追い出された。組合員に吊し上げられた労組の委員長は、愛想をつかした女房に逃げられて、浪費家の愛人だけが残った。結果、家と土地を売り払い、自己破産を宣告した。

ニュー東宝の夜は今日も、ホステスたちの熱気と化粧の匂いであふれていた。












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