第30話 ランコムの小箱
8月、中標津の各牧場は出産ラッシュが続いていた。ホルスタインは満月のころに、出産率が高まるという俗説がある。事実かどうかは別として、この年は8月25日が、月が最も大きく見えるスーパームーンであった。
酪農研究所の美津子は毎日契約牧場に行き、ホルスタインの出産を見守った。
場合によっては胎児の育ちすぎなどにより、難産となることもある。獣医が呼ばれるのはこんなときだ。
「先生すぐ来てください」という電話が朝から晩まで鳴りやまなかった。
美津子が村田牧場に着いたのは午後1時であった。
「先生、なんでもっと早く来てくんなかったんだ、俺の牛が死んじまったじゃねえか」
美津子は昨夜から徹夜で3頭の出産に立ち会い、家にも帰らず直接出社した。
午前中は中村牧場で去勢手術を行ったあと、事務所に戻り仮眠をとっているとき、田村牧場から電話があった。田村牧場にはホルスタインが200頭いて、牧場主の田村夫婦と牧童が2人いた。
酪農研究所との付き合いは20年以上になる。そのころはナベ先生の他、池上という獣医がいた。池上獣医が退職したあとは、ナベ先生一人となり、田村牧場とは経営相談がほとんどであった。
だが美津子が酪農研究所に入ったことで、再び出産にも立ち会うようになった。
だがこの日、急に産気づいた雌牛がいて、牧場の人の手には負えなくなっていた。
生憎この日ナベ先生は獣医師会の会合で、釧路に行っていた。
美津子は大急ぎで村田牧場に向かったが、藁を敷いた上に横たわった母牛と子牛にはもう、息がなかった。
母牛は出産6日目から1年間は毎日搾乳され、牧場の収入源となる。死産だった子牛も雌であった。この子牛も翌年からは、母牛となる。牧場にとって、母牛と子牛の死は大変な痛手である。今回の死産は獣医の責任ではないが、美津子の心に大きな傷を残した。
学校では「家畜には情を持つな、物と思え」と教わった。だがいずれは死を迎える。家畜でも、少なくとも命がある限り、人のために懸命に働き、生きている。
長く生き、元気に働いてもらいたいと思うのは、生産者も獣医も変わらない。
美津子は例え家畜であろうとも、命を預かる者の責任の重さを痛感した。
家に帰ると電話のベルが鳴っていた。玄関で靴を脱ぐのももどかしく、部屋に入り、受話器を持ち上げようとしたとき、電話のベルは止まった。
冷蔵庫から作り置きの煮物を取り出して、コンロに乗せたとき、また電話のベルが鳴った。
受話器を耳に当てると、「こんな遅くまで何をやってたの、熊にでも襲われて死んでしまったかと思ったわよ」と、里奈の声が聞こえた。
時計を見ると針は午後11時を指していた。釧路のクラブ子鶴にいたころなら、蛍の光りが鳴っているころだ。
日によってはお客さんとアフターをしたり、ホステス仲間と食事に行ったりして、末広町の街に繰り出した。楽しい思い出もいっぱいある。
だが獣医となった今、あのころは感じなかった「頼られる喜び」を知った。
「もしもし聞いてるの、疲れてるみたいね、働きすぎよ」と里奈にいわれ、慌てて
「私は大丈夫よ、里奈はどうなの」と答えた。
「私ね湯山さんと結婚することになったわ、式には来てくれるでしょ」と里奈は嬉しそうな声で言った。
「もちろん行くわよ。で、式はいつなの」
「10月の第三日曜日よ、絶対に来てね」
「バカね、里奈の結婚式でしょ、何があったって行くわよ、じゃあ電子レンジを贈りたいと思うんだけど、受け取ってくれるでしょ」
「電子レンジって高いんでしょ、私は何も要らないわ、会費だけでいいのよ」
北海道では開拓時代からの習慣で、会費制という結婚式が普通であった。一般的な結婚式の会費は1万円くらいで、お返しもなしとすることで、互いの経済的、また精神的な負担を軽くする、新興国北海道らしい習慣である。
ただ付き合いの深さによって、別途何かを贈るということも行われていた。
美津子が聞いても里奈が「なにも要らない」というのは分かっていた。美津子は自分が毎日、一人で冷たいご飯を食べる寂しさを感じていた。電子レンジがあれば、自分にも愛する人にも、どんなときでも、温かいご飯を食べさせられると思った。
当時電子レンジは東海道新幹線のビュッフェや、国際線のギャレーに採用されていた。だが高価なこともあり、一般家庭にはほとんど普及していなかった。
ようやくカラーテレビが行きわたり、家電メーカーは次の主力商品として、電子レンジの販売に力を入れていた。
家電販売店の店頭ではよく、電子レンジの便利さをアピールする実演が行われていた。
美津子と里奈は、川上町の北斗電気という家電販売店に東芝の社員が来て、サツマイモを電子レンジで調理したのを試食したことがあった。
二人は火もお湯も使わずに、サツマイモが焼き芋に変わっていく様子を、じっと眺めた。
「へぇー凄いわね、こんなこともできるのね」と言い、食べたサツマイモは温かくて、甘かった。
「北斗電気に電話しとくからね、芋でもトウキビでも、嫌いだなんて言わせないで、甚弥さんに食べさせるのよ」
「ありがとう美津子、電子レンジを頂くことにするわ。甚弥さんも喜んでくれると思うわ。美津子も早くいい人をみつけてね」などと、話しこみ、電話を切ったときは日付が変わっていた。
久しぶりの里奈との電話でなにもかも全部打ち明けて、空っぽになった頭で朝8時まで熟睡した。
9時頃に出勤するとナベ先生が「釧路で買ってきたぁ、お前使うか」と言って、
丸一鶴屋デパートの包装紙に包まれた小箱を渡された。
開けてみると、美津子がクラブ小鶴時代に使っていた、ランコムの化粧品セットが入っていた
「お前も女だべ、少しはおしゃれをしたらどうなんだ、中標津みたいな田舎でも誰かは見てっからな」
美津子は中標津に来てから地元に溶け込みたいと思うあまり、なりふりかまわずに仕事に打ち込んできた。
ナベ先生に言われなければ見た目だけでなく、自分がどう見られているかなどと、考えてもいなかった。だが、きっと自分のどこかに、「どうせこんな田舎のことだから」と、バカにした気持ちがあったに違いない。
「なに泣いてんだ、早く行けよ、ベコが待ってるべ」と、ナベ先生に言われて外に出た。空には箒で掃いたような筋雲が浮かんでいた。もうこんな秋雲の季節になったのか。季節の変わりめはおろか、人の心も気が付かない自分を乗せた雲が、西の方に流れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます