第29話 朝日楼の歌
大漁旗をなびかせて釧路港に、遠洋漁業船団が帰ってきた。
船員が半年ぶりに陸に上がるとき乗組員の胸に去来するのは娑婆に残した女たちだ。愛し合っていると思っていても世の中は所詮男と女。何が起きるか分からない。 帰ってみたら女は誰かのものになっていた。港町にこんな悲哀は付きものだ。
伊藤和夫が遠洋漁業から帰ってみると釧路の街の風景が変わっていた。
買収騒ぎも収まって安心して船に乗ったのに、帰った時には不二洋服店は、チャラリンコという名前のパチンコ屋になっていた。中に入ってみると、都はるみの「好きになった人」という歌が流れていた。
なにが好きになった人だ、俺が好きなのは洋子だ、と、店内を探してみたが洋子はいなかった。洋子の行方が気になって、㋥佐々木に行ってみると慎太郎は何事もなかったような顔をして、「おう和夫、今日はカニを持って来てくれたのか」と気が抜けるようことを言った。
少しムカッとして「不二洋服店がなくなっていましたが、いったいどういうことですか」と言ってみた。すると慎太郎は、「ああ、あの店なら、お前がいないうちに潰れちまったよ」と、相変わらずのんびりとしていた。
このクソ親父め、と思ったがぐっとこらえ、「どうして潰れたんですか、1億の融資をしたじゃないですか」と和夫は慎太郎に詰め寄った。
「あのな和夫よく聞けよ。確かに俺は不二洋服店に1億円融資した、それも無担保で。不二洋服店はその金を北海銀行に払って、負債はなくなった。不二洋服店が持っている不動産は1億円の価値がある。それを不二洋服店はパチンコ屋に1億円で売った。損得なしだ。不二洋服店はその金に10万円の利息をつけて、俺に返しに来た。
1億円の利息が10万円だ、計算してみろ、たったの0.1パーセントだ。
今どきこんな安い金利で金を貸す業者が他にいると思うか。
俺は不二洋服店を救う気は毛頭ない。お前のために儲けなしで貸した金だ。
あのときお前は形ばかりだけど、不二洋服店の役員だったはずだ。
不二洋服店を潰すか立ち直らせるか、それもお前が決めることだと、言ったはずだ」といわれたが納得はできなかった。
「洋子さんはどこへ行ったと思いますか」
「それは俺にも分からないな。きっとどこかでひっそりと、暮らしてるんじゃないか。お前が助けに来るのを待ってるかも知れないな」
どこかで待ってるかも知れないといわれても、どこへ行っていいものやら、皆目見当がつかない。
㋥佐々木の事務所を出ると、空はもう真っ暗だった。自然と足は末広町に向かっていた。
おなじみのキャバレー麟の目に着くと、品川明とクールスターズと並んで、フイッシャーズというバンドのポスターが貼ってあった。
席に着くとマネージャーの健治が気をきかせたつもりなのか、何度か指名したことがある明美を席につかせた。
明美はダンスは上手いし、話し上手だけど、飲ませかたも上手くて、つい飲みすぎてしまうことが何度かあった。
だが飲んで酔いたいと思っていた今日の気分に、明美はピッタリだ。
明美に勧められ、ビールを3本空けたころ、ステージでフイッシャーズの演奏が始まった。生バンドは柳町公会堂でベンチャーズを聞いたことはあるし、末広町のディスコ シャンデリーで、ギャンブラーズというバンドを聞いたことがある。
だがフイッシャーズの演奏する「竹田の子守唄」はどのバンドとも違った。彼ら独自の編曲と思われるが、なんとも言えない哀愁に満ちた響きであった。
竹田の子守唄が終わったあと拍手に迎えられて、口紅を真っ赤に塗り、長い付けまつげのメイクと、サイドが大きく割れて、太ももまで見える赤いドレスに身を包んだ女性がマイクの前に立った。
彼女がフイッシャーズをバックに英語で歌いだすと、透き通ったその声に、ざわついていた店内もシーンとなって、聞き入った。
彼女が歌った曲は、The House of the Rising Sun といい、日本では「朝日のあたる家」と訳されている。原曲は娼婦に身を落とした女性がその半生を懺悔する歌で、彼女がいた娼館がザハウスオブザサンといい、昭和初期までは朝日楼の歌と呼ばれていた。真っ赤な口紅を塗って街角に立つ女性や、遊郭の女性たちを指している。
和夫は彼女の歌声とほっそりとした首筋に、探している洋子を重ね合わせていた。
もちろん洋子とは別人である。だが彼女を見ていると、洋子に初めて会ったときのような、胸の鼓動を感じた。なんとなく洋子が、どこかに売られてしまって朝日楼のようなところにいるのでは、とさえ思った。
彼女はそのあと、ミニー・リパートンのヒット曲、ラビング ユーを日本語で歌った。
「明美ちゃん、今歌ってる人の名前はなんていうの」
「白木洋子さんっていう人よ」
「シラキ ヨウコ?………」
「どうしたの和夫さん、考えこんじゃって」
「うん、俺の知ってる人にちょっと似てるんで、聞いてみたんだけどさ」
「その人は歌手なの」
「いや、違うんだ、俺が知ってる人も洋子っていうんだけど、その人は洋服屋さんだ」
「じゃあ、やっぱり違うじゃない。他人の空似ってよくいうでしょ、きっとそれよ」
「やっぱり俺の目が変なのかな、俺の知ってる洋子はもっと地味だったよな」
「そうよ、それよっか、飲みましょうよ、さ、グーっとやりましょ」
と、飲ませ上手な明美に勧められ、グラスを重ねたが、和夫の心は晴れなかった。
会社が潰れてしまったのは仕方ないけれど、洋子のことが気になって仕方がなかった。あの時どうして「好きです」と打ち明けて、自分のものにしてしまわなかったのか。いっそ、「あんたなんか嫌いよ」と言われた方がよほど気持ちは楽になるのにと、思わずにはいられなかった。
白木洋子のステージが終わり、ステージは品川明とクールスターズの「クライ・トゥ・リメンバー」の演奏に変わった。
「いつまで考えてるの、さ、ダンスよ」と、明美に言われてフロアに立った。
クライ・トゥ・リメンバーを背に明美と向き合うと、自分が洋子を裏切って、行きがかりの女を抱いているような錯覚に陥った。
似てる人に出会っても、本当の洋子ではない。本当の洋子ではない人を洋子の代わりに好きになってしまったら、本当の洋子を裏切ることになる。和夫にとって洋子は、絶対に探さなければならない人になっていた。
朝、目が覚めると和夫の横には明美が寝ていた。
「おいお前、どうしてここにいるんだ」
「なに言ってんのよ、あんたが私を無理やりホテルに連れこんだんでしょ」
「俺は本当にやったのか」
「覚えてないの、3回もやったじゃない」と、明美は4度目を挑んできた。
俺は本当に洋子を裏切ってしまった。償うとしたらなんだろうか、俺を待っているかも知れない洋子を探して、幸せにしてあげるしかない。洋子を探す当てのない旅が始まった。
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