第27話 別れのポーチ
この年日米は、貿易摩擦がピークに達していた。デトロイトでは日本の車が焼かれたり、日本食レストランが投石されるなど、アメリカ人の対日感情は悪化する一方であった。
国内では5月に、どうせ通るはずはないと、高を括って野党が出した内閣不信任案が、何と、一部の与党議員の造反で可決してしまった。これには内閣不信任案を出した野党自身が驚いた。大平内閣は解散して総選挙となり、これは後に、「ハプニング解散」と呼ばれるようになった。
ハプニングはまだ続いた。選挙戦の最中に大平総理が急逝したのである。
選挙の結果は総理の弔い票も加わって、与党は解散前を26議席上回る310議席に達し、圧勝した。
だが、問題も起きていた。滝沢修一の地元北海道では与党10議席に対し、野党の合計議席数は12議席となり、逆転を許してしまった。
ことに滝沢の選挙区の北海道5区では当選はしたものの票を大きく減らし、日本社〇党の岡田〇春を下回る結果となった。
当然のごとく、派閥内における滝沢の威信は低下して、大臣に推されることもなかった。
影響は滝沢の娘、千鶴が経営するクラブ子鶴にも及んだ。
「ねえ由香里、最近ウーさんが来ないわね」
「ウーさんだけじゃないわ、ミーさんもターさんも来ないわよ」
滝沢が落ち目となった途端、中央の政会や財界の名士たちも、漁連の幹部たちも、滝沢の娘の店に脚を運ぶことはなくなった。
クラブ子鶴に群がった客も実際は、滝沢が政権の重要ポストに就くことを期待して、来ているのであった。
滝沢が落ち目となると、かっての華々しさが仇となり、更には妬みも加わって、千鶴にも世間の風は冷たく当たるようになった。
「ねえ知ってる、子鶴のママってさ、妾の子なんだってね」
「妾の子だものね、叩けば埃がいっぱいでてくると思うわ」
「そうね、何が出て来るか見ものだわ」
「あのママには修っていう子どもがいるけど、誰の子か分かんないっていうじゃない。それにね、うちの子と同じ学校なのよ、いやだわ」
「あんたんとこは男の子だからまだいいわ、うちなんか女の子だからさ、何をされるか分かんないわ」
「あー、いやだいやだ、あんな人たちなんか、どっかへ行って欲しいわね」
と、クラブ子鶴のママ千鶴のにまわりには、あることないこと様々な、中傷する声が届くようになった。
受験を控えていた息子の修は、憧れのアイスホッケーの得点王、引木選手の出身高の釧路工業高校を諦めて、札幌の高校を受けることにした。
だが、修は受験に失敗した。釧路に帰ってくると、同級生の早苗が修の帰りを待っていた。早苗はバンドマンの男と心中したBAR アイビーのママ、蔦恵の娘であった。
「修ちゃん、私と一緒にお母さんのところへ行かない、綺麗なお花が咲いているって
お母さんが言ってたわ」
千鶴がマンションの部屋でみたのは、白い花を抱いて横たわる、修と早苗の冷たくなった姿であった。
「修!」と叫び揺り動かしても、修と早苗が返事をすることはなかった。
あれほど賑わったクラブ子鶴もついに、ネオンを消すことになった。
「美津子はこれからどうするの」
「中標津の酪農研究所から、話がきてるんだけどこれで決心が付いたわ、獣医の資格を生かして、ホルスタインと暮らすわ」
「美津子は獣医だからね、それがいいと思うわ」
「里奈はどうするの」
「㋥佐々木の湯山さんに相談してみようと思うんだけど、『もう水商売なんか辞めちまえ』って言うかもね」
「どうして湯山さんの考えが分かるの」
「何となくだけどね」
「怪しいな、ひょっとしたら、あんたたち付き合ってんじゃないの」
「隠しててごめんね、本当は湯山さんから結婚を申し込まれてんのよ」
「やったじゃない、早く結婚しちゃいなさい、あの人なら安心よ」
☆☆☆
「もうこの着物を着ることはない」と、ママの千鶴は、丹頂鶴の模様の入った正絹の和服に鋏を入れた。
切られた着物は千鶴の針で丹念に縫られ、20個のポーチになった。
別れの日が来た。
「辛いことがあったらこのポーチに詰めて、捨てて下さいね」と、千鶴はホステス一人一人に手渡した。
「ママ、もうこれ以上辛いことなんて絶対にないわ、このポーチには幸せをいっぱい詰め込んで、一生離さないわ」
別れの日のポーチは彼女たちの幸せを詰めるポーチになった。
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