第26話 伝言板から生まれたデビュー

 ㋖北村に入社した洋子は経理部に配属された。1日に2回、警備会社の車が集金にやって来る。午後2時と午後8時。7時に閉店した後の経理部は、売上高と、現金の照合で、目が回るほどの忙しさだ。警備会社が出た後には帳簿付けが待っている。

 会社を出るころには、日付が変わっていることもある。肩をうごかせばギシギシと、油が切れたような音がした。


 それでも不二洋服店時代、資金繰りに苦しんだころに比べれば、気持ちだけはずいぶん楽になった。

 ただ㋖北村のメインバンクは不二洋服店と同じ道東銀行で、担当者も同じ玉井という人だった。


 玉井はいかにも「金を貸してやっている」と言わんばかりの顔付でやって来た。

 洋子を見つけると薄ら笑いをして「奥さんあんたね、挨拶もなしにいなくなったと思ったら、こんなとこにいたんだね」と言った。


 その日だけではない。玉井は部長、課長と話したあと洋子に寄って来て、必ず言うのだった。

「丸一鶴屋さんも困ってるだろうね」と、嫌味たっぷりに。


 不二洋服店は丸一鶴屋デパートのオリジナルブランド「丹頂」の紳士服を作っていた。不二洋服店がなくなってから、代わりの縫製工場が見つかるまで、販売を中止することとなった。

 だが取引を始めてから20年間、丹頂というブランドを育てたのは、他ならぬ不二洋服店であった。

 道東銀行にも、不二洋服店が支払いを滞ったことは一度もない。担保だって十分にそろってた、大楽毛の土地だって無理やり貸し付けられて、仕方なしに買った土地だった。少なくとも玉井個人には少なからず、業績に寄与したはずだ。

「あんたに言われる筋合いはないよ」と言いたいのをぐっと堪えた。


 玉井が来ると部長も課長もペコリと頭を下げる。玉井はまるでそれが当然と言わんばかりの態度で踏ん反りかえっていた。銀行に帰れば支店長の前でいつも、ペコペコしているのを、知らないとでも思っているのだろうか。


◇◇◇◇


 洋子のアパートは浦見町というところにあった。近くには市役所、釧路支庁々舍、釧路気象台、市立図書館があり、高校時代はこの図書館の伝言板が、友達との通信手段であった。久しぶりに行ってみると、伝言板はまだ残っていた。


 伝言板の中に「ヴォルガで10時、室井」と書かれた一行があった。

 ヴォルガとは末広町の歌声喫茶である。当時歌声喫茶は人気のピークを過ぎ、一時は釧路に5軒あった店も今では、ヴォルガだけとなった。


 懐かしさで洋子はヴォルガに行ってみた。店の中は昔のままであった。奥の方に小さなステージがあり、昔はここで店主のギターに合わせ、客は全員ロシア民謡や反戦歌などを合唱した。

 メニューをみると反戦歌はなくなっていた。代わりにアメリカンポップスと、ラテンソングが載っていた。何となく時代の流れを感じた。


「洋子ちゃんじゃないかい」と、声を掛けられ振り向くと、店主でギターを弾いていた桑田さんがいた。

「洋子ちゃんと会うのは何年ぶりかな」

「私も考えていたんですよ、もう10年も来ていなかったんですね」


「そうか10年も経ったんだね、もうすぐバンドの連中が来るけど、あの頃の歌を知ってる人は少なくなったので、今日は洋子ちゃんが歌ってよ」と言われて、自分もずいぶん古い人間になったのかなと、改めて10の歳月を感じた。


 10分ほどするとギターを抱えた3人組がやって来て、ステージに立った。

 リーダーらしい人が「お待たせしました。トリオエコーズのステージをお楽しみください」と言い、ラテン音楽の「ベサメ・ムーチョ」と「ラ・マラゲーニヤ」を演奏した。

 どうやら昔のように皆んなで歌うのではなく、生の演奏と歌を聞いて、お酒を飲む店になっているらしかった。

 すると、桑田さんがステージの3人と話したあと、「今日は多分皆さんが初めて聞く曲を、洋子さんに歌ってもらいます」と言って洋子をステージに引っ張りだした。突然のできごとにびっくりしている洋子に歌詞カードを渡すと「昔のまま歌って下さいね」と言った。


 桑田さんは「多分皆さんは初めて聞くと思います」と言ったけど、歌詞カードを見ると「トロイカ」とか「カチューシャ」など、誰でも知っているようなロシア民謡が10曲くらいあった。


「初めて聞くと思います」と言ったのは、本当は洋子をステージに引っ張り出す口実なのだと思った。


 バンドの3人は音合わせをした後、指でOK のサインを出した。ここまで来たらもう後には引けなくなった。なんでもいいから日本語で歌える曲を探すと「黒い瞳」があった。


「これをお願いします」と言うとバンドの人たちは間髪を入れず、イントロを演奏しだした。洋子の動揺を静めるためだろうか、2分以上の長いイントロを入れてくれた。その間に呼吸を整え、深呼吸をした後、「忘れ得ぬ子の面影は…………」と歌いだすと、自分でも驚くくらい声が出た。3分少々歌い終わったとき、店内は拍手と「ぴー」という口笛で埋まった。


「アンコール」という声に押され、「ポールシャル・ポーレ」と、「赤いサラファン」をロシア語で歌った。


 頭の中にヴォルガの大河が現れて、拍手の音が水の飛沫となり、サラサラと流れていくような感覚に襲われた。

 もう嫌味な銀行員も何もかも、スッキリと消えていた。


 休憩時間となって、トリオエコーズの三人と、ウオッカの水割りを飲んだ。凄く苦かったけど、喉の奥にスーッと流れていった。

 そこに二人の男性が現れて、「明日から僕たちも一緒にやることになりました」と言った。

 トリオエコーズのリーダーは室井さんといい、今現れた二人はドラムスとキーボードを演奏する人であった。

 新しいバンドの名前は漁港釧路らしく、「フイッシャーズ」にしたという。


 室井さんに「ボクたちと一緒になって、セクステットを結成しませんか」と誘われた。

「私、仕事があるので無理かも知れません」と言うと室井さんは「僕たちは来月だけシャンデリーに出ることになっています。その後はまだ決まってません。風来坊の集まりですが、洋子さんさえよろしければ、いつまででも待っています」


 洋子の腹は決まっていた。新しいグループの一員となって、新しい道を歩むことにした。

 だが生まれ変わって生きていくには、名前も新しい方がふさわしい。

 斉木洋子は白木洋子となって、デビューすることとなった。






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