第17話 緑ヶ丘の風
幣舞橋の1キロほど下流に、久寿里橋という橋がある。この橋を渡りまっすぐ走ると、だだっ広い平地ばっかりの釧路では、ここだけが丘になっていて、HBC釧路放送局のテレビアンテナが立ち、釧路ゴルフ倶楽部の三角旗が浜風に揺れている。ここは緑が丘というところで釧路の高級住宅地である。
ここに柿崎慎太郎の家が完成した。釧路に来てから慎太郎は㋥佐々木で、妻の富美は佐藤木工場で箱打ちをして、他人の30年分くらいを10年に凝縮したように働き、ようやく手にした新築住宅である。
釧路に来たとき中学生だった長女の敏江は25歳に、小学生だった息子の健治は23歳となり、ニュー東宝のホステスと、麟の目のホールマネージャーとなった。
同じ末広町にいながら滅多に会うこともなかった姉弟も、久しぶりに新築の部屋にいた。
「健治、うちの店に、君江って20歳の子がいるんだけどさ、すっごくいい子なんだよ。あんた付き合ってみないかい」
「女の子はうちにもいっぱいいるよ」
「あんた半可臭いね。店の子に手を付けたら、首になるんだよ」
「分かってるよ、俺も今までにボーイを二人首にしたからね」
「あんたマネージャーだもんね、首を切るほうだったんだ、で、あんた本当に女はいないのかい」
「姉ちゃんこそどうなんだ、いいヤツはいないのかい」
「私はねあんたと違うからね、もう決めた人がいるよ」
「敏江、それは本当なのかい、母さんは初めて聞いたよ」
「そうだね言っちゃおうか、道漁連(北海道漁業組合連合会)の職員で齢は30だけど、将来は幹部になれる人だよ」
「本当かい、漁連の幹部といえば一生安泰だね、母さんは安心したよ」
「だけど、幹部になったら転勤があるからね、そうなったら店に努めてはいられなくなるのよ」
「どこに行くかは分かってるの」
「札幌の本部だと思うわ」
「札幌ならいうことはないでしょ、店なんか辞めちゃいなさいよ」
「まあ、焦らずに考えとくわ」
がやがやと声が聞こえて来た。「すげぇー、豪邸じゃないの」と言いながら湯山さんと、桜井さんがやって来た。
湯山さんと桜井さんは富が佐藤木工場にいたとき、富美と一緒に箱打ちをしていた仲間である。湯山さんの息子の甚弥は㋥佐々木に入り、慎太郎の部下となった。
桜井さんの息子の浩一は渡辺工務店に入って大工となり、柿崎邸の新築工事を担当した。
「富美ちゃんあんた、がんばったね、こんな立派な家に住めるなんてさ…」と、湯山さんは涙声になった。
「うちだけの力じゃないよ、甚弥さんがよくやってくれているおかげだよ」
「甚弥もあんたの旦那に拾われて、幸せもんだよ…………」
「この家を建ててくれた浩一さんにも感謝しなくちゃね」
「なんもだよ、うちの浩一なんか、なんにもしてないよ」
「ささ、こっちへ入ってちょうだい」と3人は奥へ入った。
「敏江ちゃんも健治ちゃんも来てたんだね、しばらくだね、敏江ちゃんはなんぼになったんかな」
「25になりました」
「そうかい、もうそろそろだね」
「今そんなことを話してたとこなんですよ」
「そうかい、早いもんだね、みんなそんな齢になったんだね。ところでさ旦那はどこさ行ったんだい」
「照れてんのよ。あそこにいるよ」
富美が目を向けた先で慎太郎はスコップで、土をいじっていた。
「何をしてんだい、穴なんか掘ってさ」
「穴じゃないよ、芝生を植えてんだよ、ゴルフの練習をするんだってね」
「たまげたな、ゴルフだってさ、うちと違うな、だけどさ目の前にゴルフ俱楽部ってのがあるけどな」
「あそこは高くてね、うちなんかじゃ入れてもらえないよ」
「へーえ、あんたの旦那も入れないとこがあるんだね」
「本当はうちだってゴルフをする身分じゃないよ、だけどさ、付き合いがあるじゃない、滝沢先生とかさ、…あ、まずぃ…………」」
「いいよ聞いてないよ、先生のことは知ってるからさ、甚弥だって㋥佐々木にいるんだからさ」
「ごめん下さい」と佐々木和夫が入って来た。佐々木和夫の母は佐藤木工場と同業の、小林製材で箱打ちをしていた。小林製材は佐藤木工場に吸収されたが、同じ箱打ち仲間として富、湯山さん、桜井さんとも付き合っていた。和夫は慎太郎の紹介で近藤水産の遠洋漁業船団に乗っていた。
「これ、どうぞ」といって和夫はタラバガニを差し出した。
「わー、こんなでっかいタラバは初めて見たわ、それも3杯も。重かったでしょ」
釧路はタラバガニの水揚げ量は日本一である。だが漁場のほとんどが北方四島周辺にあり、ソ連との交渉で漁獲量も制限されているため、地元であっても値段は決して安くない。
「これ、和夫ちゃんが捕ったんかい」
「僕の船はもっと遠くへ行くので、カニは捕らないんです」
「じゃあ買ってきたのかい、高かったでしょ」
「船の仲間がいっぱいいますから、安く買えました。気にしないで下さい」
「せっかくだから頂こうか。ちょうど3杯あるから、湯山さんと桜井さんのお土産にするわね、ありがとうね」
「富美ちゃん、こんなにでっかいんだからさ、脚を1本だけ、カニご飯にしない」
「私も手伝うわ」と女たちは台所に立ち、男たち3人は奥の部屋に入って、金粉入りの日本酒の栓を開けた。
「伊藤、昨日の電話の話を続けてくれ」と慎太郎は伊藤和夫に話すように促した。
「実はですね、若松町に不二洋服店という店があって、大楽毛に新しい工場を作ったのですが、社長が去年亡くなって、専務だった息子が社長になりました。
この若社長はを癌を患っていて、一時は回復して仕事に付いたのですが、最近また再発しまして、医者からもう長くないと言われました。で、若社長の奥さんが会社を見ているのですが、この奥さんにあっちこっちから買収の提案が来るようになりました。
社員の間には動揺が走り、業績は落ちる一方です。せっかく作った工場のミシンは半分しか動いていません。このままでは倒産しそうです」
「お前と不二洋服店はどういう関係なんだ」
「それはちょっと…………」
「聞かなくても大体は分かる、男ならしょうがない。一生に一度くらいはそういうこともあるものだ、だからそれは問わないことにする。だけどな、ビジネスと割り切って、助けを求めるなら、こっちも応じてもいいぞ」
「ビジネスですか」
「そうだ、ビジネスだ、具体的に聞こう、若松町の店は自社物件か」
「そうだと思います」
「思うだけか」
「はい」
「それじゃあダメだ、お前の話を聞くことはできない」
「自社物件だと分ればいいのですか」
「お前にやる気があるのなら、今から言うことを調べて来い」
「はい、言って下さい」
「じゃあ言うぞ…………
1、若松町の土地と建物の登記簿謄本
2、大楽毛工場の土地と建物の登記簿謄本
3、借入金と借入先
4,会社約款
5,役員人事簿
6,従業員数と就労契約書
7,取引先の住所、氏名
8、取引年数
9、取引額
10、売掛金と買掛金
11、代表者の健康診断書
12、株式総数
13、代表者の親族
「えー、こんなにあるんですか!」
「これだけじゃないまだあるぞ」
慎太郎が提示した条件を見て、和夫は思わず持っていたコップを落としそうになった。甘かったと、観念しそうになった。
だが、不二洋服店の斉木洋子のことが忘れられなかった。ただ一度だけ洋服を作っただけの関係の女に、自分は何をしようといているのだろう。
ここで、今お願いしたことは全部取り消します、といったら気持ちが楽になるのと、思った。
そのとき慎太郎は言った。
「例え、お前がこの条件を全部満たしても、金は一銭もださないぞ、俺が助けるのは助ける価値がある人間かどうかだ、もし助ける価値があると判断したら、どんな損をしても助けてやる。だが俺はその女のことは何一つ知らない。その女を知ってるのはお前だけだ。だから助ける価値があるかどうか、それはお前が決めることだ」
助ける価値があるか、どうか、自分が決めることだ、和夫は慎太郎の言葉を何度も、心の中で復唱した。自分が決めるとは、他人が考えることを自分が決めることになる。
他人の考えを自分が考える。そんなことをできる人はいるのだろうか、自分の考えで自分が何かを行うより、はるかに大きい責任があるように思った。
迷う和夫に慎太郎はもう一つ言った。
「何を迷ってる。女を助ける気があるか、ないか、どっちかだろ」
もう決めるしかない、あの人に替えられるものはない。
「お願いします。あの人を助けてやって下さい」
「難しい顔をしてどうしたのですか、美味しいカニご飯が出来ましたよ、さあみんなでいただきましょう」と女たちが入って来た。
この人たちも誰かを助け、誰かに助けられて生きて来たのだろう。
彼女たちの顔は輝いていた、例え失敗してもい、自分は正しい決断をしたのだと信じよう。 緑が丘の風がすーっと流れていた。
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