第9話 丹頂に刺さったミシン針
釧路港の遠洋漁業船団が北洋に向かうのは5月と10月で、船員は合間に近海漁の小型船に乗る。近藤水産の伊藤和夫は一か月ほどの合間を縫って、運転免許を取ることにした。
愛国1丁目の自動車教習所まで、釧路駅前から教習所の無料マイクロバスが出ていた。
他にも東邦交通の路線バスがあり、近藤水産の寮がある幸町からは、路線バスの方がバス停が近く、和夫は路線バスを利用することにした。
路線バスに乗り始めてから数日後、若松町のパール座前というバス停で乗った人が、愛国自動車教習所前バス停で降り、教習所に向かっていた
コースの予約も和夫と同じ時間のようであった。
交通法規の時間には同じ教室で受講した。実技の時間が終わり、帰る時のバスも同じ時間であった。そんな日が5日続いた。
ある日の休憩時間に「いつも一緒になりますね、いつごろ取れそうですか」
と、声を掛けてみた。
「私、下手だから、まだまだ掛かると思います」彼女はそう言って、外のコースを走る教習車を見ていた。
「帰りのバスも一緒になりそうですね」
「今日はうちの車が迎えに来るんです。来なくてもいいって言ったんですけど」と 言い、目を伏せた。なんとなく、迎えに来られるのが憂鬱であるような感じがした。
教習を終え外を見ると、彼女を迎えに来た車が見えた。運転している人は見えなかったが、車はトヨタマスターラインという、トヨタクラウンのワゴンタイプで、商用車として使われることが多い車であった。彼女はなにか事業をやっている人の奥さんなのだろうか、和夫は彼女に惹かれていくのを感じた。
翌日彼女はバスには乗ってこなかった。教習所のどこにもいなかった。休みを取ったのだろうと思ったが、姿を見ないと何か不安な気持ちになった。
帰りのバスに揺られている時も、彼女のことが頭から離れなかった。
「次はパール座前」とアナウンスが鳴ったとき、和夫は停車のボタンを押していた。
和夫はパール座という映画館の前でバスを降りた。
このあたり一帯は鉄北と呼ばれ、パール座の他、日劇という日活の準封切り館や商店などがある商業地区であった。
パール座の前に不二洋服店という店があり、駐車場にトヨタマスターラインが止っていた。この店にあの人がいるのか、と、見つけた嬉しさと慎みのない自分を恥じた。
不二洋服店は店頭に商品は置いてなく、卸し店のように見えた。
二階は住居になっているようだったが、彼女の姿は見えなかった。
あまりじろじろと見るのはためらわれ、その場をあとにした。その後彼女が教習所に来ない間に、和夫は近海漁の船に乗ることになった。
次に来れるのは3日後である。少し寂しい気がしたが、またすぐに会えると気を取り直し、船に乗った。
5日後、教習所に行くと、マスターラインが止っていた。教習所の待合室に彼女と、運転してきたと思われる中年の女性がいた。その人は「車で待っています」と言って席を離れた。
彼女は「昨日合格しました、明日警察で免許証を貰えます」と前よりは少し明るい顔になっていた。
「まだまだ掛かると思います」と言っていたけど、和夫よりずっと早く免許を取っていた。
もう会えなくなるのかと、少し寂しい気持ちでいると「来週から丸一鶴屋デパートの紳士服売り場に立つことになりました。ついでがありましたらお寄り下さい」と言い、名刺を渡された。名刺には紳士服製造卸 不二洋服店 斉木洋子と書かれていた。
丸一鶴屋デパートというのは釧路で一番大きいデパートで、北大通リ5丁目にあった。和夫も合格のめどが立ったある日、丸一鶴屋デパートに行ってみた。
彼女が言っていた通リ、5階の紳士服売り場の中の、丸一鶴屋デパートオリジナルブランド「丹頂」の売り場に彼女がいた。
「本当に来てくれたのですね、でも……商売のつもりで言ったのじゃないですよ」と恥じらうように言った。
「気にしないでください。僕はスーツが必要だったので来ただけです。自分のためなんです」とその場を繕った。
「でもお客さまに合うのは、今は在庫がございません、せっかく来ていただいたのに本当にすみません」と言った。
売り場を見てみるとY体とA体がほとんどで、和夫のような肩幅が広く、胸の筋肉が発達した体には合うのはなさそうであった、
「お客さまはお急ぎですか」
「いえ、急いではいません」
「それならお客さまに合わせて作ることはできるかと思います」
「でもここはイージーオーダーの店ではないですよね、どうされるのですか」
「ここにあるのは丹頂の規格に添った既製品だけですが、工場には他に20体の試作台があります。ご希望の生地の在庫があれば、1週間でお渡しできるかと思います」
「値段はどうなるのですか」
「ここにある生地と色が同じであれば、値段は他の規制品と変わりません」とイージーオーダーそのもので、丹頂のスーツが作れると言った。
「それじゃあ、これで作ってもらえますか」と、チャコールグレーのスーツをオーダーすることとなった。
採寸をしている時「間に合って良かったです」と斉木洋子が言ったので「どういうことですか」と聞いてみた。すると、「うちの会社は今年いっぱいで、丹頂の紳士服製造契約を打ち切られるかも知れません。その時はここにも居られなくなります」と言い、声を詰まらせた。
大勢の人がいるこの場所で、洋子をこれ以上話させるのは忍びなかった。
「明日、免許証受け取りのところで待っています」…………
翌日釧路警察の交通課で洋子と会い、航路と言う喫茶店で話をすることになった…………
…………不二洋服店は10年ほど前から、黒崎商店という太平洋炭鉱の購買部と委託契約した店に、ジャケットを納入していた。
黒崎商店の社長は斉木洋子の夫で、不二洋服店の専務の博隆が病に臥せたことを知ると、取引の条件に洋子との関係を求めて来た。洋子が断ると黒崎は「ジャケットの袖にミシンの針が残っていて、試着した客が怪我をした」と言い、取引の停止をちらつかせた。洋子は屈しなかったが、太平洋炭鉱の顧客は失った。
不二洋服店と丹頂印紳士服の製造契約を結んでいた丸一鶴屋デパートは、噂が広がって、丸一鶴屋デパートに及ぶのではないかと、風評被害を受けるのを恐れた。
丹頂は紳士服だけでなく、靴,鞄、Yシャツ、下着、など、男性用品の全部のブランドであった。他の商品への波及を恐れた丹頂担当バイヤーは、不二洋服店に、工場の作業工程の検査を行うと通告した。検査の結果、何も問題はなかった。
だが、丹頂の製造は他の紳士服メーカーが決まるまでの、暫定とされた。
丸一鶴屋デパートの売り場を失った後、新しい販売先を探し、営業活動をするには最低でも、運転免許が必要であった。
☆☆☆☆
キャバレーニュー東宝の55番テーブルに、黒崎が案内された。
ステージではコロムビア・ローズが、東京のバスガールを歌っていた。
「いらっしゃいませ、汐未と言います。お邪魔してもいいでしょうか」
「チエッ、しけた女だな」
「え、私のこと?」
「お前じゃないよ、あの歌ってる女だ」
「知らないの、あの人はコロムビア・ローズという、紅白にも出た有名な歌手よ」
「名前は聞いたことがあるけど、あれがコロムビア・ローズか」
黒崎はショーなどには全く興味がない。キャバレーに来る目的はあれ、だけである。
だがキャバレーにあれが出来る女がいると思っていること自体、浅はかな黒崎という男を物語っている。
汐未にとって、こんな単純で扱いやすい男は、他にいない。
「お名前を教えてもらってもいいですか」
「俺の名前は黒崎だ」と、ふてぶてしく言った。
「じゃあ、クーちゃんって呼んでいいかしら」
「クーちゃんか悪くねえな」
「ねえ、クーちゃんはどんなお仕事をしてるの、知りたいな」と、甘えるよう声で聞く。黒崎のような男にはこれが最もよく効く魔法の声だ。
「そんなに俺のことを知りたいか、知ったら驚くぞヒッヒッヒ」と、嫌らしい顔が一層醜くなる。
「ねえ、焦らさないで 早く言ってよ、待ちきれないわ」
「しょうがない女だな、ま、いいか、俺は黒ダイヤを掘る会社と、取引をしてやっている、いやだと言っても、放してくれないんだ。困った会社だな」
「黒ダイヤ?素敵!欲しいわ、ねえ、1個買ってくれない、いいでしょ」
「あれ次第だな」
「あれをすればいいのね、簡単なことよ、私もあれが大好きよ」
汐未はマッチを灯してボーイを呼んだ。
「105番テーブルに丸一鶴屋デパートのウーさんが来てるから、ここに呼んで」と、そっと言った。
「いつもお世話になります。丸一鶴屋デパート外商部の宇田川と申します。ダイヤをご希望なのですね、お客さまにぴったりの品が入荷しております」と、豪華なカタログを開いた。
「プラチナの台に5カラットのダイヤが付いて2億円でございます。大変お買い得かと思います」
「…………2億円? 分かった、もういい、おあいそうを頼む はぁ~」と、黒崎はその場にへたり込んだ。
☆☆
ちくしょう、あの汐未とかいうクソ女め、俺に恥をかかせやがって、今度会ったら、あそこにすりこ木棒をぶっ込んでやるからな、覚えとけよ。
ん、クラブ子鶴? 良さそうな店じゃねえか、あのクソ女のとことは違うだろ、入ってみるか。
「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」と、黒崎はクラブ子鶴の5番テーブルに案内された。
「いらっしゃいませ、里奈と申します」
「里奈か、さっきの汐未っていう女とは段違いだな、始めからここにしといたら良かったな」
「何のことですか)」
「気にするな独り言だ」
「お飲み物は何にいたしましょう」
「そうだな、ウイスキーの水割りにしてくれないか、薄くていいからな、喉が渇いてしょうがないわ」
「お客さまはどんなお仕事をされてるのですか」
「俺は太平洋炭鉱の社長に頼まれて、あるものを売ってやってるけど、あいつらは安い物しか買わないから、1日、1億しか売れない、本当に貧乏人とは嫌なもんだな」
「いらっしゃいませ」と、別の客が来て、10番テーブルに案内された。
「お客さま、ちょうど良かったわ、今来た人は太平洋炭鉱の社長さんよ。挨拶に来させましょうか」
「…………太平洋炭鉱の社長だって………はぁ~」
「どうされたのですか、お取引きしてるのでしょ、顔見知りですよね」
「ちょっと待て、挨拶に来るのは後にしてくれ」
「いらっしゃいませ」とまた別の客が7番テーブルに案内された。
「今来た人も知り合いでしょ、ご挨拶させましょうか」
「誰だったかな、忘れちまったな」
「あの人は経済企画庁長官の荒磯さんよ」
「はぁ~」
と続々と、各界の名士がクラブ子鶴に入って来た。
「もういい、おあいそうを頼む」
「お待たせしました、こちらになります」とマネージャーが出した請求書に、黒崎は腰を抜かさんばかりに驚いた。
そこには10万円と書かれていた。
「おい、桁を間違えてないか、俺は薄い水割り1杯だけどな」
「あら、うちの店はこれが最低の料金よ、これ以下はないのよ」
黒崎はへたり込んだまま、起き上がれなかった。
☆☆
丸一鶴屋デパートは丹頂印紳士服を任せられるメーカーを探し続けた。だが不二洋服店に勝る品質のメーカーはどこにもなかった。
丸一鶴屋オリジナル丹頂印紳士服は、不二洋服店が継続して作り続けることなった。
和夫が注文した肩広胸厚サイズは定番サイズとなり、丹頂印紳士服の売り場に並ぶこととなった。
洋子は大楽毛(オタノシケ)の工場との往復と、新規顧客の獲得にマスターラインで走り回っている。和夫は遠洋漁業の船団に乗り、大海原を走っていた。
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