第7話 清水湊 

 8月 釧路にも遅い夏が来た。

「暑いな、死にそうだ、お前はよく我慢できるな」

「俺だって同じだ、川に飛び込みたいくらいだ」


「じゃあ飛び込んで見ろ」

「バカやろ、俺は金槌だ」


「今、何度あるのかな、寒暖計を見てくれないか」

「なんだって、25度もあるじゃねえか、暑いわけだ」


 釧路は真夏でも、気温が25度を超える日は滅多にない。

 通常は20度を少し超えるくらいである。

 同じ北海道でも旭川や帯広などの内陸部では、35度くらいになる日もある。

 釧路より緯度が北にある稚内も、夏の気温は釧路より高い。年間を通しての平均気温は多分、釧路が日本で一番低いと思う。

 暑くても、寒くても、末広町の賑わいは変わらない。


 キャバレー麟の目は大漁旗を掲げて帰った船乗りで、どの席も埋まっている。

 今日の麟の目のステージは、「じゅんとネネ」の二人が「愛するってこわ

 い…………」と歌ってる。

 55番テーブルの伊藤和夫はじゅんとネネの大フアンだ。特にネネの甘ったるい声を聞くと、ナニがおっ立つという。

 ステージの上は和夫など、じゅんとネネのフアンが贈った花束でいっぱいだ。

 どうせ明日には枯れてしまう。ホテルまで持って帰ることはないと知りつつ、花束を贈る。荒くれ者集団のヤン衆も、陸に上がれば只の純な男たちだ。


 和夫は釧路江南高校に在学中、松浦町というところに住んでいた。

 回りにはアパートがたくさんあった。どのアパートにも、ホステスが住んでいた。

 彼女らの出勤する姿を眺め、一人でシコシコと自分で慰めていた。

 ある日、いつものように眺めていると、一人の女性と目が合った。彼女はちょっと微笑んだように感じた。和夫は恥ずかしくなり、うつむいてしまった。


 顔を上げると視線の先に、タクシーに向かって手を挙げる彼女が見えた。

 乗り込むとき、ちょっとこっちを見たように感じた。


 その夜、0時を回ったころ、タクシーが止まる音がした。目を凝らして見ていると、あの人がタクシーから降りてきた。タクシーの中には知らない男が乗っていた。

 彼女は遠ざかるタクシーをじっと見ていた。

 なぜか、自分が別れを告げられたように感じた。


 その日を最後に、彼女の姿は見えなくなった。遠くへ行ってしまったのだ、と、思うと寂しさがこみ上げてきた。


 3年生になり進路を決める時期が来たころ、母が勤める佐藤木工場に、㋥佐々木の柿崎という人が頻繁に来るようになった。母は柿崎に何か相談しているようだった。

 夏休みに母を手伝い、和夫も箱打ちをした。ある日気がつくと、和夫の横に柿崎が座っていた。

 柿崎は「お前は大学へ行くのか」と聞いた。

 柿崎が母と話していることを知っていた和夫は「まだ決めていません」と答えた。

「俺の倅は船乗りになるか、どうか、迷ってたけど、結局キャバレーのボーイになった。船乗りから金をふんだくるなんて、とんでもないヤツだ」と冗談のように言った。

 だが和夫は、あの日以来会えなくなった彼女が、キャバレーで辛い仕事をさせられて、自分を呼んでいるように感じた。


「おじさんはキャバレーで働くのと、船乗りではどっちがいいと思いますか」と聞いた。

「俺は倅も娘もキャバレーにいるから、キャバレーがどれほど辛いか、良く知っている。だけど、船乗りの仕事はもっと辛い、同じ辛さを味わうなら金をいっぱい貰える方に行くな」

「おじさんは船に乗ったことがあるのですか」


「俺はないけど、㋥佐々木は船乗り相手の商売だから、船乗りのことはよく知っている。それに㋥佐々木も船乗りも、キャバレーのホステスを助ける仕事だから、彼女たちのこともよく知っている。みんないい子ばっかりだ」と、柿崎は船乗りがホステスを救う仕事だと言った。


 和夫の中に、あの人が可哀そうな境遇にいて、自分が救ってやりたいと思った。「㋥佐々木とはどういう会社ですか」と、尋ねた。


 すると柿崎は「清水次郎長を知ってるか」と言った。


「知りません」と答えると、


「㋥佐々木と言う会社は江戸………」と語りだした。

 江戸時代中期から蝦夷地には松前藩という、石高を持たない藩があった。江戸時代末期となり幕府は松前藩に百石を与え、蝦夷地を幕府の領地とした。

 明治となり、白石(宮城県)八戸(青森県)弘前(青森県)などから、農村の次男や三男が、屯田兵と蝦夷へ向かうようになった。松前から東方へ行くには、陸路がなく、東方の天然の良港厚岸と、八戸や江戸との、海上交易が行われるようになった。


 清水湊(静岡市清水港)からも船が出るようになり、次郎長は荷役人夫を送りだした。

 娯楽のない蝦夷の港では、酒と博打が船乗りと荷役人夫たちの唯一の娯楽であった。

 人夫同士の無秩序な賭けで、負けのこんだ者たちは仕事にも付かず、酒を煽るようになった。


 そこに清水次郎長と関係する佐々木長治という人が、秩序立ったルールを定め、賭博の賭けに上限を設け、集金業務を行うようになった。負けが込んでも翌月の給料を担保にすることで、逃げることも無くなり、お互いが利益を得る仕組みであった。

 佐々木長治という人は、次郎長一家では、数少ない武家出身で、読み書きが達者な男であった。


 蝦夷に向かう途中、船酔いに苦しむ佐々木長治に薬を与え、介抱してくれた武家出身の鈴木誠の家紋㋥をいただき、㋥佐々木となった。

 戦後会社組織となり、厚岸から釧路に本店を移動した。

 現在の代表は佐々木長治の孫、佐々木勝也が勤めている。

 柿崎慎太郎は三井物産農林部厚岸事業所を経て、昭和35年に入社した。


 …………と慎太郎の説明が終わった時、和夫は卒業したら船乗りになろうと決めていた。


 和夫は慎太郎の紹介で、釧路でも大手に属する近藤水産という会社に入った。

 沿岸魚業から始まり、今は北洋漁業の船団に乗っている。


 船の中で掛かるう歌は、三橋美智也と都はるみ、のヘビーローテーションで、耳にタコができるくらい聞かされた。

 六か月振りに陸に上がり、テレビをみていると、じゅんとネネという、デュオがデビューしていた。ネネの甘ったるい声を聞いた時、昔の淡い恋の想い出に浸っていた。

 あれから5年、真っ黒に日焼けして、腕も太くなった。今あの人に出会ったら、強く抱きしめてやろうと思った。





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